2012年(平成24年)10月10日号

No.552

銀座一丁目新聞

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追悼録(468)

新劇に歌舞伎役者が深くかかわっていた

 

 小内山薫が旗揚げした自由劇場は明治42年11月27日、有楽座でイプセン作・森鴎外訳「ジョン・ガプリエル・ポルクマン」を上演した。ポルグマン役には市川左団次がなる。坪内逍遥・島村抱月の文芸協会は2年前の明治39年11月10日同じくイプセンの「人形の家」を上演している。新劇にはこの二つの流れがある。新しい演劇の息吹であった。

 小内山薫は昭和3年12月25日、47歳で死去する。当時の朝日新聞は次のように伝える。「劇作家小内山薫氏は25日夜築地小劇場の会に出席中発病四谷南寺7の自宅に帰宅間もなく心臓まひにて死去した行年49(数え年) 氏は明治14年7月広島市に生まれ、東大英文科卒業(注・府立1中、一高)、大正元年欧州諸国を漫遊、作品には小説『大川端』『盲目』などがあり、市川左団次とともに自由劇場を興して以来劇団に貢献するところ多く近年では築地小劇場を創始してその発展に献身的努力を続けてきたものである」(昭和3年12月26日)

 意外やここに歌舞伎役者市川左団次(2代目)の名前が出てくる。小内山とは左団次が17歳の時(小内山薫は1歳年下)、雑俳(俳号杏花・松筵)に凝っていたころからの知り合いであった。明治39年9月、左団次が襲名披露で儲け、9ヶ月間の欧米外遊の際、小内山薫は「芝居を研究してきてくれ」と注文をつける。外遊先で劇作家・演出家の松居松葉から英・仏・独の演劇の勉強の重要性を教えられる。左団次26歳。外国から帰ると左団次は小内山薫と明治座に立てこもり自由劇場の運動を始める。前進座の嵐圭史さんの本によると、「発足に逡巡する小内山薫の尻を叩いてリードしたのが左団次であった」という。左団次一座にいて行動を共にした河原崎長十郎(『どん底』などに出演)と小内山薫の直弟子土方与志がお互いに絆を深め、それが築地小劇場となり、前進座誕生(昭和6年)への、一つのルーツともなったと説明する。自由劇場は大正8年、帝劇でブリューの「信仰」(第9回)を上演して解散する。

 小内山薫と土方与志は築地小劇場を関東大震災後の大正13年6月13日に作る。おカネを出したのが土方与志であった。土方は伯爵でしかも大金持。ヨローッパ永住を決めて、日本には帰る意志がなかった。それを口説いたのが河原崎長十郎であった。「震災後、先行きの見通しが持てない中で是非帰ってきて文化の火を再び燃やすために尽力してくれ・・・」と手紙に書く。演劇人の情熱はすごいと思う。市川左団次は歌舞伎界でも活躍するが昭和3年、ソ連で『仮名手本忠臣蔵』の公演を行い、ソ連演劇界に影響を与える。これが史上初の歌舞伎海外公演であった。左団次は昭和15年59歳で死去した。


(柳 路夫)