2012年(平成24年)1月20日号

No.527

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(442)

源氏悲劇の追悼録(続1)

 

 ある時、恩師日本医大の日本歴史の教授故奥富敬之先生に『「講釈師見てきたようなウソを言い」と言いますが、歴史家は、史実に基づく本当の話をするので、もっと面白いですね。』とお話したことがある。確かに旅好きの私には現地に行きこの目で見たくなるような好奇心の湧くお話が多かった。

 この話は、源 頼朝や義経の父、武勇高き源 義朝と父為義の話である。もともと源氏は運命の皮肉か、一族の間で相克の歴史が多くの悲劇を生んでいる。

 保元元(1156)年7月11日、天皇家(後白河天皇対崇徳上皇)、藤原摂関家(藤原忠通対藤原頼長)が政権奪取のため両家各々が内部分裂し、「保元の乱」が勃発する。源氏、平氏ともそれぞれに仕え、加担する武士たちはその役目を果たすため、同族、近親相克の悲惨ないくさを展開せざるを得なくなった。

 激戦の末、後白河天皇側が源 義朝や平 清盛たちの奮戦により勝利する。しかし、義朝は、父為義や多くの弟たちを敵にまわし、勝利を得たものの、敵にまわした一族10人ばかりを、不本意にも自分の手で斬らなければならない羽目となった。ちなみに平氏総帥の清盛は白河天皇のご落胤との説もあり、血縁でもない叔父平 忠正ほか3人の斬首ですむというえこひいきであった。ともかく、義朝は、忠孝いずれをとるか必死に助命嘆願するが、実父為義たちを斬ることは、仕えた後白河天皇の勅宣であった。ついに崇徳上皇派の為義以下一党は義朝の幼弟4人を含め京都北部の船岡山に引き出され、義朝立会のもと配下の波多野 義通に斬首させた。当然、世間は親殺しを罵った。しかし義朝は平氏に比べ、衰退した家運挽回に辛い悲しい処置であった。

 私は某日その船岡山へ登った。うす寒い秋の夕方であった。頂上は余り木もなく岩が点在し、日は西山に傾いて吹き抜ける風が淋しい。陰惨な光景を思い浮かべ、勅命とはいえ実の父を殺さなければならない運命の皮肉、ああ無情。

 船岡山は、桓武天皇が京都平安京の都市計画の起点として真南に朱雀大路を作ったという説のある高さ112bの小丘である。かつては王朝貴族が正月初子(ね)の日に山へ登り陰陽の静気を吸って憂いを除くとされたが、平安期以降は葬送の地となっていた。また応仁の乱の合戦の西陣も近くである。

 翌日、為義の墓へ詣でた。そこは、やっと探した下京区の七条通りを西に、梅小路商店街の入口。為義の墓と標石がなければ判らぬような狭い路地奥の小さなお寺の一隅にひっそりと建っていた。 

 しかし、権力闘争の政局は定まらず、今度は清盛の熊野参詣の留守に義朝等が兵を挙げた。平治元(1159)年12月9日勃発した平治の乱である。

 ここでも義朝の悲劇は。また次回に。



(市ヶ谷 一郎)