小さな個人美術館の旅(20)
川嶋紀子雲の絵美術館
星 瑠璃子(エッセイスト)

 八ヶ岳の麓の町、小淵沢駅前のタクシー会社で道をたずねると「行けますかねえ」といわんばかりにこちらを頭のてっぺんから足の先までジロジロ見た。それでも地図を書いてくれながら「迷わずに行けたら夕クシー運転手になれますよ」などと余計なことを言う。

 「なんてオーバーな。せまいニッポン、行けないところなんてあるはずない。日本語だって通じるんだもんね」とばかりに威勢よく車を走らせたのはよかったが、果たせるかな迷ってしまった。人に道をきこうにも、おおかたが野中の一本道なのである。あとで分かったことだが、スタートが間違っていた。中央高速は、小淵沢ではなく須玉インターで下りればよかったのだ。

 黄金色に輝く稲穂を美しく染めていた秋の日が暮れかかろうとする頃ようやく辿りついた「雲の絵美術館」は、奥深い別荘地のカラ松林に囲まれて立つ「高原ア−ト館」のなかの小さな小さな「美術館」だった。「八ヶ岳高原アート館」「川嶋紀子雲の絵美術館」と、うっかリすると見過ごしてしまいそうなところに看板があって、車を停めて小道の奥をすかして見ると、ぽつんと明かりが灯っている。どこから流れてくるのか美味しそうな匂いを嗅ぎながら玄関を入れば、ぺンション風建物(二階が宿泊施設になっている)の左手奥が「ギャラリー」、右手が「雲の絵美術館」だ。ああ、と思わず嘆声をあげてしまった。というのも、いっばいに掛けられた雲の絵にいきなり迎えられたから。明け方の紫色にけむる雲、陽に染まってオレンジ色に燃える雲、たゆたう、うっすらとピンクの雲、わきたつ雲、飛ぶ雲、流れる雲……。柔らかく、あるいは鮮烈に染め上げられた、めくるめくばかりの色彩の饗宴である。

川嶋紀子雲の絵美術館

 作者、川嶋紀子(いとこ)さんは、秋篠宮紀子(きこ)妃殿下の父方の祖母にあたる方だ。紀子さま誕生のおり、お母さまが日頃深く尊敬していたおばあさまのお名前をいただいて同じ表記の名前をつけたことは知る人ぞ知る話である。

 雲の絵を描き始めてもう四十年以上になる。むかし、ご主人がとつぜん病気で倒れられたことがあった。まだ小さかった子どもたちを抱えた紀子さんは、毎朝夜明け前に起きて昇ってくる太陽に手を合わせ祈った。ご主人の快癒と、たとえどんなことがあろうとも決然として生きてゆくことを。幸いご主人の病いは快方に向かわれたが、その時に見た夜明けの太陽に染まる雲の美しさが忘れられず、以来半世紀近くもの間、雲の絵を描き続けているのだという。

 朝暗いうちに起きだし、はやる気持ちを抑えてしっかり身支度をして庭に出る。それは八十九歳になるいまも変わらない紀子さんの日課だ。雲は待っていてくれない。刻々と表情を変える様は瞬時にとらえなければ消えてしまう。まばたきする時間も惜しむように、パステルを使って一気に仕上げる。おおかたが住まいの近くの鎌倉の海に広がる雲だ。そんなふうに描きためた八千点を「アート館」に寄贈して「川嶋紀子雲の絵美術館」が開かれたは1991年のことだった。

 今年は八幡様の境内に近い鎌倉雪ノ下にもうひとつ「雲の絵美術館」(鎌倉常設館)ができた。どちらにも、こどものような驚きの目で自然を見、同化し、夢中で描いている様子がじかに伝わってくるような、喜びに満ちた絵があふれている。全国に美術館は多いけれど、うまいとか下手とか、古いとか新しいとか、ものの見方がどうだとか描き方どうだとかそんなことにはいっさいとらわれない、ただ夢中で描きためた絵をみんなに見てほしいとでもいうような、こんな美術館が一つくらいあってもいい。

川嶋紀子雲の絵美術館

 私は、川嶋紀子さんとおないどしの私の母のことを思う。洋画家の一人娘として生まれ、絵描きに嫁ぎ、戦争の苦しい時代に子どもたちを育て、父親も夫も亡くしてから母は絵を描きはじめた。朝早くから憑かれたように描き、タ方油絵の筆を洗う時は、もう疲労で倒れそうだ。それでも、毎日描く。うまくいってもいかなくても、描いている時がいちばん楽しい、という。来年は卒寿記念の回顧展を開く。

 人間って素敵だ。そして、生きていることは美しい。

 住 所 山梨県北巨摩郡高根町長沢4986-992 TEL0551‐47−4715
 交 通 中央本線「小淵沢」より小海線に乗り換え甲斐大泉下車タクシー4分 または、
     中央自動車道須玉インターより車で20分
     鎌倉館へはJR鎌倉よりバス「大塔宮」行きなどで「岐れ道」下車、徒歩2分

 休館日 火曜日(8月は無休) 鎌倉館は第4火曜日(祝日の場合はその翌日)

星 瑠璃子(ほし・るりこ)

 東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。
www@hb-arts.co.jp