1998年(平成10年)11月20日(旬刊)

No.58

銀座一丁目新聞

 

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“針の穴から世界をのぞく(4)”

 ユージン・リッジウッド

プライバシーを守れ ― 欧連合の戦略

 [ニューヨーク発]アメリカに住み始めた日本人やヨーロッパ人が共通してこぼすこと、それは郵便や電話によるダイレクト商法の激しさである。ごみ箱直行のジャンクメールと呼ばれる通信販売案内は毎日山と来るし、夕方食卓についてやっとビールにありつこうとしたら、クレジットカードの勧誘から住宅ローンや株式投資の案内、車の保険の乗り換えやら国際救援活動、環境保護活動の支援金の要請まで、ありとあらゆる勧誘の電話がかかって来る。

 仕事から帰ってほっと一息つこうとする時だけに、初めのうちは丁寧に断っていた勧誘にもだんだん我慢仕切れなくなって、冷たく「ノー・サンキュウ、(ガチャン)」「番号が間違ってます、(ガチャン)」と、自衛策を強化することになる。しかしそのうちこれもアメリカ文化と納得してメールや勧誘電話を選択的に利用する術を覚え、時には投資勧誘の相手に「あなたこそ早くその株で一儲けして、人がくつろぐ夜まで働いて魅惑をかけるのを止めたら?」などと皮肉の一つも言って憂さ晴らしをするようになる。またジャンクメールの少ない日は何となく世間から無視されたような寂しい気分に襲われたりする。こうなればもう立派な“アメリカ人”。

 だが『それにしても』と外国籍の“アメリカ人”たちはまた考える。どうして自分の名前や住所、電話番号を敵は知っているのだろう。敵は、住宅ローンの有無や銀行、クレジットカードの信用度まで十分承知していると見えることも少なくないではないか。

 その秘密は、アメリカでは個人情報が自由に売買されるという事実にある。その結果ニューヨーク郊外に住む私の友人ヤマムラ・コーイチさんのような珍体験が生まれる。コイチやコヒチと読まれないようにと、ヤマムラさんは英語では名前をKoh-ichi とつづっている。つまり欧米人にはめずらしくないハイフンを使って、正確な読みを期待したのである。最初は Koh-ichi Yamamura とか Koh Yamamura というような正当な宛名で来ていたジャンクメールがK. I. Yamamura名でも来るようになった。これはまだ許せる。ところがそのうち Ichi Koh Yamamuraやら Yamamura Ichi Kohなどのバリエーションを取り出し、ついにはY. Ichi Kohやら Koh. Y. Ichiなど本人にも一体だれのことやら分からない名前のメールが配達されるようになった。もうないだろうと思っていても、しばらくするとまた新しいバリエーションが登場する。こうしていつしかヤマムラさん一家は次の珍名の登場をみんなで心待ちするようになった。

 どうしてこんなことが起こるかと言えば、名簿が次から次と転売されているうちに、どの部分が姓でどの部分が名かも分からなくなってしまうからである。日本人の名前の姓と名を識別することなど宛名づくりのコンピューター・タイピストには土台不可能な相談だ。

 しかしこのような通信販売や電話勧誘のアメリカ商法に大きな障壁が現れた。ヨーロッパ連合(EU)はこのほどプライバシー保護規定を加盟各国で正式に発効させた。それは一言でいうと、個人に関する情報はいかなるものであれ、本人の了解無しに勝手に使用してはならないというもの。これによって、アメリカの多国籍企業やコンピューター・データ会社はアメリカ的活動をヨーロッパ諸国で展開出来なくなった。そればかりか、規定にある国境を越えた個人情報の移動禁止条項により、ヨーロッパで入手した顧客情報を米国の本社データベースに転送したり、あるいはヨーロッパの各国支店の間での情報交換も出来なくなった。航空会社にとっては得意客情報を国境を越えた支店間でやり取りすることも規定違反になるし、本人の了解無しに「要車椅子の準備」などという良心的サービス情報のコンピューター入力も無断で出来なくなった。

 こんな厳しい規制が可能なのは、一つには通信販売制度がヨーロッパではまだ未成熟であること。アメリカでは通信販売などで安く買って使い捨てが普通なのに対して、ヨーロッパでは品質のいい品を手に取ってじっくりと選びそして大事に長く使うという消費文化の伝統がある。さらにヨーロッパのプライバシー保護意識がアメリカと比較して数段高いことも挙げられる。フラapple.gif (6420 バイト)ンスの某大統領のように妻以外に愛する人を持っていても、マスコミも世間もそのようなプライバシーはそっとしておくのが美徳と心得る。日本の週刊誌やアメリカのタブロイド紙には考えられない話しである。

 コンピューター間で瞬時に飛び交うあらゆる個人情報は企業活動でますます重要な地位を占める。それだけに、アメリカ式個人情報の商品化にはヨーロッハ並みの規制が必要だという声がアメリカの中にも出てきた。

 クリントン大統領にしてみれば、“昼下がりの情事”も大目に見てくれるヨーロッパのプライバシー尊重の精神をもっと早く輸入すべきだったと、今は悔しい思いでいっぱいだろう。

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