2010年(平成23年)3月20日号

No.498

銀座一丁目新聞

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追悼録(412)

大山巌を偲ぶ


 将帥は困難に会った時どう対処したのか。どこかの国の首相が民間会社に怒鳴りこむのは愚と言うほかない。東北関東大震災の際、上に立つ者の器量が問われると痛感した。日露戦争の時、満州軍総司令官大山巌元帥の逸話を思い出す。

 沙河会戦で、苦戦を強いられ、総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、大山元帥が「今日はどこかで大砲の音がしもうすがどこぞで戦がごわすか」と惚けた。これで部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻す。明治36年6月、満州軍総司令官を任命するにあたって参謀総長であった大山巌元帥は山縣有朋を適任とした。明治天皇は「山縣は万事に気がついて細かく指導するので敬遠されるであろう。あまりうるさくない人物が良かろう」と大山元帥を指名した。大山元帥が「大山はボンヤリしているから総司令官に任命するというふうにも聞こえますが・・・」と述べると明治天皇は「そんなところであろう」と答えられた。大山元帥は決断すべき時は的確な判断を下している。遼陽会戦の際。ロシア軍の兵力「歩兵191大隊、騎兵162中隊、砲兵66中隊(砲522門,重砲34門21センチカノン砲若干=日本軍の偵察による)これに対して日本軍は「歩兵118大隊、騎兵81中隊」で砲弾も不足しており、第三軍の旅順攻略後第三軍の参加を待ってからと、遼陽攻撃を見合わせたいという意向が強かった。大山元帥は遼陽が南満州の戦略要地であり、これを占領することは戦略上必要である。さらに時間がたつほど敵も増強されるので苦戦を覚悟して攻撃を命じた。「戦には楽な戦などない」と言った。日本軍は勝利をおさめた。統帥綱領にいわく。「軍隊指揮の消長は指揮官の威徳に関わる。いやしくも将に将たるものは、高邁な品性、公明の資質及び無限の抱擁力を具え,堅確の意志、卓越の識見及び非凡の洞察力により、衆望帰向の中枢、全軍の中心足らざるべからず」。聞くべき言葉である。

 大山元帥は大正5年12月10日死去、享年74歳であった。面白いエピソードがある。内田百(本名栄造)は大正5年から大正12年頃まで陸軍士官学校でドイツ語の教官をしていた。大正5年12月10日に30期生657名の入校式があった。前の日の午後6時50分に日頃尊敬している夏目漱石が死んでいたので百閧ヘ家からフロックコート、山高帽子、薄色の手套など、式に必要な装束一式を取り寄せて、混雑している夏目家から市ヶ谷本町の陸軍士官学校に出かけた。10日の午前11時45分に日露戦争の満州軍総司令官、大山元帥がなくなった。ところが百間は「教官室の同僚のだれの口からも漱石先生の訃を悼む声を先に聞いた」という。日露戦争から早11年、大山元帥より漱石のほうが人気があった。時の流れである。致し方あるまい。


(柳 路夫)