「ある老女の物語」

大竹 洋子

監督・脚本 ポール・コックス
出演 シーラ・フローランス、ゴーシャ・ドブロヴォルスカ、ノーマン・ケイほか
オーストラリア/1991年作品/カラー/スタンダード/96分
1991年オーストラリア・アカデミー賞(AFI)最優秀主演女優賞
1991年オーストラリア人権最優秀映画賞
1992年フランダース国際映画祭グランプリ

 「ある老女の物語」の初日に、岩波ホール総支配人の高野悦子さんが、こんな挨拶をした。「この映画の原題は、A WOMAN′S TALE、“ある女性の物語”です。それを“老女の物語”とするにはずいぶん抵抗がありました。しかし、あえてこう名づけたのは、年をとるということ、老いるということがどんなに素晴らしいことか、年をとってこそ知る人生の重味というものを大切にしたかったからです」。満席の観客は大きくうなずいていた。

 マーサ、78歳、息子がいるが、メルボルンのアパートで一人暮らしをしている。マーサはガンに冒されている。しかし病院に入るつもりも、老人ホームに行く気持ちも全くない。大好きな煙草をやめる気も絶対にない。早くに死に別れた夫の写真と、お気に入りの調度品にかこまれながら、小鳥や黒猫と共に毎日を快活に過ごしている。友人とハイキングに出かけ、老人たちの集まりで歌い、プールで泳ぎ、隣室のこれも一人暮らしのビリーの面倒をみる。かなりやりたい放題だが、最大の長所は常にユーモアを忘れないこと、他者に対して非常にやさしいことである。

 しかし夜が訪れて、マーサがおちいる孤独の深さに、私たちは蕭然とする。マーサはその長い時間を、深夜のラジオ放送でしのぐ。そしてそんな中で、マーサは自殺志願のリスナーの少女を必死で励ましたりもする。どんなに命が大切かを、マーサは真剣に少女に訴え、自殺を思いとどまらせようとする。第二次大戦中、マーサはドイツ軍の爆撃で幼い娘を失った。その光景は、今もマーサの心にくり返しくり返し甦る。

 この映画にはもう一人の主人公がいる。地域看護婦のアンナである。オーストラリアは北欧と並ぶ福祉国家であり、とりわけ老人の在宅看護に力を入れることで知られている。アンナは与えられた任務のなかでマーサと知りあい、強い信頼関係で結ばれるようになった。1991年に作られた「ある老女の物語」の、日本での公開が遅れた原因の一つに、このアンナの存在がある。介護される者と、する者のあまりに幸福な関係、これが理解される段階に、日本はまだ至っていないのではないか、という危惧の念である。

 だが、日本は急激に高齢社会に突入し、現在では誰もが在宅看護の必要性を感じているし、在宅ケアとか、訪問ナースという言葉も身近なものになった。羽田澄子監督の「安心して老いるために」が、そのことをよく教えてくれたということもある。それでもなお、このオーストラリアのシステムと、そこで繰り広げられるこの美しい人間愛の物語に、羨望の思いはつのる一方である。

 オランダ出身のポール・コックス監督は57歳で、いつもサンダルをはいている。少年期をオランダで過ごしたコックスさんは、つねにナチスドイツの兵士のブーツの足音におびえていた。そのブーツが人を蹴る音も、コックスさんは忘れることができない。決して頑丈な靴ははくまい、とコックスさんは心にきめた。コックスさんはそういう人である。

 1916年生まれの女優、シーラ・フローランスはコックスさんの30年来の友人だった。シーラがガンにかかり、もう8週間しか命がないと知ったコックスさんは、シーラのために映画を撮る決心をした。三日三晩で脚本を書きあげ、そこにはシーラの人生があますところなく反映された。シーラはわが身をさらけ出して、マ−サ役を演じ切った。彼女の病気は撮影中もどんどん進行した。そして完成後、この年のオーストラリア・アカデミー賞の最優秀主演女優賞を、コックスさんに抱きかかえられながら受け、それから医者の宣告よりも6ヵ月長く生き、「こんなふうに死のうとしている今でも、愛が海のように湧き出てくるの」といって死んだ。

 人間がこの世に生きるということは、何と大変なことかと思う。人生ははかない、とはいっても、その人その人の上に、さまざまなこと、さまざまな思いがある。ビリーが死に、冷たかった家族が現われて葬儀が行われる。ろくに礼もいわない娘夫婦に、「毎日、私たちが面倒をみたのよ」とマーサはいう。

 しかし、昏倒して入院を余儀なくされたマーサがアパートに戻ったとき、付き添ってきた息子に、「おれたちが面倒をみていた」という大家の言葉をきいたマーサの心は崩れ落ちる。「私はみんなのお荷物だったのね」と泣くマーサを、私たちはどうすればよいのだろうか。だがマーサの最後のセリフはこうである。「アンナ、人生はとても美しいわ。忘れないで、愛をいつまでも大切に」。

 人間の愛と信頼を描きつつ、人はいかに誇りをもって生き抜くかを問うコックス監督に、脱帽するばかりである。アンナを演ずるゴーシャ・ドブロヴォルスカの誠実な美しさも忘れ難い。

12月上旬まで岩波ホールで上映(03-3262-5252)

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