2010年(平成22年)11月1日号

No.484

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茶説

過去と向き合うことを忘れるな
 

牧念人 悠々

 前進座特別公演・早坂暁原作「夢千代日記」を見る(10月22日・東京吉祥寺前進座劇場)。山陰の温泉町で置屋の女将を務める胎内被爆者・夢千代をめぐる悲喜こもごもの人間模様が二幕のお芝居で展開される。被爆をテーマにして中国残留孤児問題、劇中劇、記憶喪失の男。置屋を買い取ろうとするヤクザなどが登場。原作者早坂暁さんは「原爆の傷は三世代まで残るのです。つまり百年の深い、深い傷です」と言い、「私の声が聞こえませんか」と訴える。そして過去と向き合へと教える。

 広島・長崎に原爆が落ちて今年で65年を迎える。昭和20年8月6日、広島に原爆が投下された時、新聞はどのように報じたか。毎日新聞は昭和20年8月8日付新聞一面トップ4段扱いで「B29,広島に新型爆弾 落下傘付き空中で破裂 相当の被害を生ず」の見出しの元に8月7日15時30分の大本営発表を掲載する。「1、昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当に被害を生じたり2、敵の攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」。この広島の惨状をたまたま仕事で美ノ郷へ向かう途中の毎日新聞西部本社の連絡部員・黒崎彰が目撃、その惨状を伝書鳩の通信紙に書いて西部本社へ送った。「ピカーッと光ってドーンと天地もさけるような轟音が轟いた」と生存者の話から原稿の最後を”ピカドン“と結んだ。己斐駅近くから5羽の鳩に通信等をつけて放したが着いたのは2羽だけであった。これが現地から届いた第一報であった。だがこの原稿は紙面に載ることはなかった。当時死者は20数万人を出したが、夢千代のように地下防空壕で何人かの新生児が誕生する。

 ピカの犠牲者は夢千代だけではない。ヤクザの親分沼田もそうである。夢千代のお母さんに原爆の日に一人ぼっちでいるところを助けられる面倒を見てもらっている。その恩返しに夢千代の原爆手帳交付に必要な証人探しを手伝う。先輩の後藤四郎さん(陸士41期)からよく聞いた。後藤さんが連隊長であった歩兵321連隊は広島市の郊外、原村演習場に配置されていた。原爆が投下された翌日、真っ先に駆けつけ、おびただし遺体をただ運び、ただ埋めて数日間、不眠不休働き続けた。このため後藤さんは原爆手帳を持っている。広島に出動したことで原爆手帳交付のため証人に進んでなったという。

 夢千代の記憶喪失のマコトとの淡い恋もマコトの妻の出現で消えて行く。抱え芸者たちはそれぞれの喜怒哀楽の表情を見せながらたくましく生きて行く。白血症で時々倒れる夢千代は日記につづる。「もう少し 生きてみようと思います いいでしょう お母さん」