2010年(平成22年)10月10日号

No.482

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追悼録(396)

山口弥六さんの3回忌


 陸軍士官学校59期生の本科14中隊・工兵の区隊長であった山口弥六さんの3回忌が工兵の同期生有志13名(うち副官4名)によって東京・谷中墓地の墓前で開かれた。同じ中隊で歩兵の区隊であった私は歩兵を代表して参加した。広島から参加したものもあり山口さんの人が偲ばれる。「山口家の墓」はきれいに掃除され新しい花がさしてあった。世話役の園部忠君が山口さんの遺徳をしのび祭文を唱える。終わって参拝する。墓の場所は「甲9号13側」。甲9号には順天堂大学創始者・佐藤尚中、俳優・長谷川一夫、明治前期の国学者・小中村清矩。初代大審院長・玉乃世履、歌人・間島冬道、小説家・獅子文六、彫金家・塚田秀鏡など著名人の墓があった。谷中墓地の面積は10万2千770平方メートル。明治7年墓地として開設される。春には桜並木美しい。「乙8号4側」には横山大観、同じく鳩山一郎、その父の和夫、さらに威一郎の墓もあった。徳川慶喜の墓所を眺めて会場の水月ホテル鴎外荘に向かう。杖をつくものも3人ほどいたが健康第一と歩く。水月ホテルは森鴎外の旧居。ここで処女作「舞姫」を執筆した。鴎外と言えば日露戦争の際、遼陽の戦いで戦死した歩兵34連隊の大隊長・橘周太大佐を思い出す。第2軍の管理部長・石光真清が祭文を書くはずであった。石光にとって橘大隊長は名古屋幼年学校の先輩であり、前任の管理部長でもあり、尊敬する軍人であった。どうしても祭文が書けなかった。思いあぐねて第2軍の軍医監で森鴎外に祭文を頼む。慰霊祭で真清管理部長が読み上げた祭文は名文であった。生き残った32連隊の兵隊120名は感涙にむせんだ。知られざる鴎外の一面である。この日夫人の節子さんと出席していた、名古屋幼年学校出身の前沢功君にそのことを伝える。

 昼食は懐石料理であった。12品もあった。おいしく頂いた。その合間苦しかった演習の話、他の区隊の区隊長に殴られたこと、無断外出した件など話に花が咲いた。私は思い出す。平成20年5月、最後の14中隊会を開いた時。区隊長としては山口弥六さんが一人だけ出席された。山口さんは肺気腫を患い、外出時には携帯酸素吸入器持参である。さらに前立腺癌にかかり、袋を持ち歩かれた。そんな体でも「私は絆を大切にしたい」と言われた。感動した。神奈川県座間の本科に居たのは9ヶ月足らずである。「死を覚悟した日々」は人間をたくましくし、強く結びつけずにはおかない。「工兵の歌」の一節が浮かぶ。

「敵弾雨飛の水壕に
徒橋を肩に人柱
渡る歩兵を励ましつ
仰ぐ敵地の日の御旗/
肝に銘ぜし犠牲の
尊き精華、今咲けり」

(柳 路夫)