2010年(平成22年)9月20日号

No.480

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追悼録(394)

野球の名付け親は中馬庚さん


 堤哲さんの「国鉄スワローズ1950―1964」(交通新聞)で野球が米国よりもたされた明治時代の話にふれた(「銀座一丁目新聞」9月1日号「花ある風景」)。この記事を読んで友人の高尾義彦君が幸田昌三さんの「野球の名付け親は中馬庚」(平成19年2月27日、初版発行)を贈ってくれた。この本の中で中馬庚さんの教え子であった著者・幸田さんは終始、野球の名付け親が正岡子規であると言う俗論を排して中馬庚こそ名付け親であると説いてやまない。

 その根拠は中馬庚さんが明治27年10月28日付で書いた「第一高等学校校友会野球部史付規則」の序文である。

「今日にあたりて速やかに適宜の訳語を定めずんば底球部又は第一囲、第二囲等の奇語生じて慣例遂に定語とならんことを恐れしが故に、未だ我部の評決を経ずといえども、余はロンテニス部を庭球とし我部を野球とせば大に義に適せりと信じて、表題は野球部史として・・・」。これで根拠は十分である。中馬さんは一高時代、正岡子規の1年後輩。名セカンドであった。

 その後、東大に進み、明治30年7月には「野球」を出版する。東大を卒業後は中学校の先生をする。日露戦争に出征し外国武官の接伴員を務め、陸軍中尉になる。中学校の校長として新潟の糸魚川中学校、新潟中学校、秋田の大舘中学校、徳島の脇町中学校などを歴任する。いずれの学校でも名物校長であった。著者の幸田さんは脇町中学校時代の教え子。中馬校長のエピソードを伝える。雨天体操場兼用の生徒控え所で生徒達がストームをはじめ、ガラスを壊し、壁を崩し、床板を踏み抜いても校長は何も言わない。前校長は堅い人で腹を立て文句を言っては修理した。ところが寒い思いをし、困るのは生徒達である。生徒達は自然と校舎管理の責任を悟ったという。また、生徒同士の乱闘事件で警察の介入を許さず、一方の首領格の生徒を自宅に引き取り、誰にも傷つけないで卒業させる方針を貫いた。このため辞表を書く羽目になり生徒の卒業を待たずに学校を去るなど中馬校長の気骨を物語る話はたくさんある。

 正岡子規が野球好きであった話は有名。「打者」「四球」「遊撃手」などの訳語を生み出している。俳人であった子規はたくさんな俳号を持つ。幼名の升(のぼる)をもじって明治23年3月16日付けの友人大谷是空あての手紙に「東京本郷 野球拝(のぼーる)」とした。「野球」という言葉を使ったのは子規が始めてかもしれないが「ベースボール」の訳ではない。あくまでも「のボール」という俳号である。これを間違えて俗説を吐く者が跡を絶たない。

 中馬庚さんが亡くなったのは昭和7年3月21日、享年62歳であった。中馬庚さんの野球殿堂入り(昭和45年)に幸田昌三さんは大いに貢献した。その幸田さんも昭和61年86歳でなくなった。平成19年2月幸田さんの4人の子供達が父の随筆や残されたメモを整理して父の志を出版した。この仕事は親子チームのクリーンヒットであった。

(柳 路夫)