2010年(平成22年)6月10日号

No.470

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花ある風景(385)

並木 徹

 信時潔の「海ゆかば」

 
 同台経済懇話会で文芸評論家、新保裕司さんの「海ゆかば」の講演を聞いた(6月8日。東京。アルカデア市谷)。最後に百余名の会員たちで「海ゆかば」を合唱した。


海ゆかば水漬くかばね/山ゆかば草蒸すかばね/大君の辺にこそ死なめ/かえりみはせじ
 当時、東京音学校教授であった信時潔は昭和12年NHKの依頼でこの歌を国民歌として作曲した。詞は万葉集4094番・大伴家持の「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌一首並びに短歌」(天平感宝元年=西暦749年=)による。家持は越中国の国守であった。時代は藤原仲麻呂が専権をふるう前夜である。大伴、物部,蘇我の名門貴族が二流貴族の地位へ没落しようとするころであった。


 この曲が初めて放送されたのは昭和12年10月である。大東亜戦争中玉砕を報ずるニュースの初めにこの曲が流された。敗戦で「海ゆかば」は封印される。2000年3月。映画評論家、川本三郎が京橋のフイルムセンターで上映された小津安二郎監督の映画「父帰る」を見た。このフイルムは終戦の際、ソ連軍が満州から持ち去ったものであった。この最後のシーンに「海ゆかば」の教が流れる。戦後「父帰る」はビデオにもなっている。上映もされた。それらの映画には「海ゆかば」は流れていなかった。それはGHQが軍国主義をあおるというので削除したからである。「海ゆかば」は田坂具隆監督の「五人の斥候兵」(昭和13年製作)にも内田吐夢監督の「血槍富士」(昭和30年製作)にも使われている。「海ゆかば」が名曲であるからである。けして好戦的なものではなく「壮大な鎮魂曲」だからであろう。久世光彦は「日本で生まれ日本で育った者の魂から春、草が萌え出るように、花がほころぶようにわき起こった歌である。過去の歌として葬ってしまうには、あまりにも口惜しいうたではないだろうか・・」と言う。さらに付けくわえる。「この曲の中に、人の命が見える。親から受け、子に伝える血脈が見える。人はどこからきてどこへいくという永遠の質問さえほのかに見えてくるような気がする」とまで評する。


 新保祐司さんは「この歌を知らない人は日本人ではない」と言い切る。「海ゆかば」は義の音楽であり崇高な曲である」と語る。「海ゆかば」には日本は将来においても「その民のうちに強く義を愛する者がある」であろうという希望が響いているという。


 信時潔は昭和40年8月1日77歳でこの世を去る。戦後20年間で作品は歌曲、合唱曲6作品を数えるにすぎないが「海ゆかば」を聞いていると新保さんが言うように万葉の時代にまでさかのぼる、日本の歴史を貫く「義」が集約されて鳴っているように感じられる。名曲はまさに不滅である。