2010年(平成22年)5月1日号

No.466

銀座一丁目新聞

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追悼録(382)

64年ぶりに帰還した父の遺骨
 

 友人・霜田昭治君からから貸していただいた阿久刀川眞さんの「遂に叶えられた悲願」―凍土の中からの帰還(平成22年3月発行・非売品)を読む。阿久刀川さんの父親、赳夫大佐は陸士27期で、終戦時は新設の128師団(註・通称英武・編成地留守担当金沢・編成時期、昭和20年3月10日・師団長水原義重中将=陸士20期)に属した第285連隊の連隊長であった。昭和20年に編成された師団には在満邦人の招集されたものが多かった.私が在学した大連2中からも先生方やすでに卒業していた同級生たちが応召された。兵器の不足は野砲400門,銃剣約10万に及び、まさに徒手空拳の師団であった。連隊は兵隊の訓練する暇さえないまま陣地構築に明け暮れた。8月9日国境を突破したソ連軍と戦闘を続けたが8月17日終戦の命を受けて停戦し、武装解除を受けた。その後シベリア送りとなる。抑留された数は60万人と言われる。阿久刀川大佐はハバロフクの収容所に入れられた。そこで「天皇とスターリンのいずれを支持するか」と尋問され「天皇陛下」と答えて言語に絶する迫害を加えられた。大佐は性来、頑健であったが、栄養失調で体力が衰弱、その上、首に出た瘍が悪化して昭和24年2月20日に倒れた。これらのことは帰国者の報告で判明した。昭和26年10月、水戸市内の寺院で行われた茨城県世話課の遺骨伝達式で渡された遺骨箱には氏名紙片が入っているだけであった。遺族の眞さん(仙台幼年学校48期生)は、敗戦国の悲しさ、虚しさ,やるせない気持ちを長く持ちつづけるようになったという。真さんは戦後、母校の中学校に復学、母の突然の死にあい進学をあきらめ地方銀行に就職する。59期生の私も食うためにマスコミの世界に入り、一生の仕事となった。
 シベリアへの墓参旅行と旧ソ蓮地域での遺骨収集が始まったのは平成3年からであった。「ソ連名簿」によって阿久刀川大佐の埋葬箇所は第1893特別野戦病院・ホール駅第二墓地その一(ハバロフスク州)であることがわかった。平成4年に最初の墓参を果たしたが「何とかして父を祖国に帰国させたい」という思いが強くなった。
 阿久刀川大佐の陸士27期は大正4年5月761名が陸士を卒業、同期生にはソ連侵攻で急遽、関東軍福参謀に任命されて赴任途中、チャンドラ・ボースと共に飛行機事故で遭難した四手井綱正中将、第31軍参謀長としサイパンで大本営に悲壮な決別電報を打電して自決した井桁啓治中将、東寧の重砲兵蓮隊長として侵攻してくるソ連軍を邀撃して戦い、火砲と運命を共にした渡辺馨大佐等がいる。
 DNA鑑定により遺骨確認が出来るようになり、平成11年10月厚生省援護局担当員がホール墓地から収集した父親の歯のDNA鑑定を帝京大学法医学教室でしたところ「親子関係なし」という結論が出た。この際、同じ墓地に眠る有村恒道少将のDNA鑑定も行ったが、別人であった。鑑定費用は遺族負担であった。真さんの父の遺骨を国へ帰還させたいという思いは、「念ずれば通ず」で、正しい「ホール墓地の埋葬図面」が見つかった。平成13年9月、3度目の墓参で始めて父親の埋葬箇所に遺族一同線香,花、日本から持参した水を供えた。厚生省では平成15年10月、ホール墓地から阿久刀川大佐と有村恒道少将(陸士23期)の検体を持ち帰り、DNA鑑定を行ったところ平成16年5月に始めて父親の遺骨であることが確認された。今回も有村少将の遺骨は別人のものであった。阿久刀川真さんら遺族が父親の遺骨を日本に迎えたのは平成16年8月1日であった。阿久刀大佐が昭和15年7月中支最前線に赴任して以来、実に64年ぶりの無言の帰国であった。遺族の感慨を思うとき暗然たる気持ちにならざるを得ない。
 阿久刀川真さんは遺骨帰還まで多数の厚生省の職員に世話になったのを感謝する。特にDNA鑑定導入の道筋をつけたのは元援護企画課長・松本正史さんの功績であったとう。民主党政権は「政治主導」というが、国民の悲願を適えるために人知れず黙々として働くお役人の存在を忘れてはなるまい。
 

(柳 路夫)