2009年(平成21年)12月1日号

No.451

銀座一丁目新聞

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茶説

「エキデン」「タスキ」は世界語である

牧念人 悠々

  「エキデン」「タスキ」は今では世界に通用する。その「エキデン」にしかも「箱根駅伝」に無名大学の陸上部が挑戦する姿を描いたのが映画「風が強く吹いている」である。原作は三浦しをんさん、監督・脚本は大森寿美男さん。若者の自分が気づいていない才能を開花させる話である。有楽町の「ビカデリー2」で見た(11月13日)。観客は50人もいなかった。それに比べて隣の「ピカデリー1」は「マイケルジャクソン」を上映、満員であった。世の中はこうゆうものである。大地にしっかりと足をつけているものが1割もいればよい。「創造」と「挑戦」を目指すは若者の特権である。
 「駅伝」と命名して初めて事業を行ったのは読売新聞である。江戸が東京になってから50年に当たる大正7年(1917年)2月2日、読売新聞は「東海道53次駅伝競走」のプランを発表した。駅伝は京都の三条大橋を出発点として、東京・上野の「東京奠都50年奉祝博覧会の会場までの516キロを走る。中継地点は草津―水口―北土山―亀山−四日市−長島―名古屋−知立―藤川−豊橋―新居−見附―掛川−藤枝―静岡−興津―吉原−三島―箱根−国府津−藤沢―川崎−東京。選手は関東軍(紫軍)と関西軍(赤組)に分ける。関東軍は早稲田大学、東京高等師範学校、第一高等学校、関西軍は愛知県立第一中学校の生徒をそれぞれ中心に選抜して、最後の中継地川崎―上野間は関東軍が金栗四三(当時27歳)、関西軍は日比野寛(当時52歳)とベテランの選手が担当した。
 4月27日午後2時、京都をスタート、沿道の歓声を浴びながら、昼夜を問わず走る続け関東軍は29日午前11時34分、関西軍は同日午後零時58分に博覧会場に到着した。大成功であった。この駅伝のプランを考え付いたのは読売新聞社会部長であった土岐善麿であった。東海道53次の宿場調査から宿場交代のマラソンを思いついたという。
 三浦しをんさんは「若者が何かに挑戦するきっかけになれば」と誰もが手がけなかった「箱根駅伝」を小説のテーマに選び、6年かけて書き上げた。寛政大学の4年生、清瀬灰二(小出慶介)は陸上部に素質ある部員を集めて「箱年駅伝」に出る夢を持っていた。鉄工場を営む陸上部の先輩の持ち家「竹山荘」に寄宿させて栄養たっぷりの食事を食べさせる。高校時代、監督を殴ったことで競技から遠ざかっている新入生、蔵原走(林遺都)を陸上部に呼び込む。他の部員といえば、部屋中がマンガ本の山だというマンガオタク、25歳の留年生、アフリカからの留学生ら8人。灰二は必勝の信念を持ってトレーニングに励み「箱根駅伝」出場を目指す。予選会をクリアして「箱根駅伝」への出場権を獲得する。予選会に出るだけでも大変である。5000メートルを17分以内、10000メートル35分以内の公認記録を持つ選手に限るという出場資格である。ひたすらに目標に向かって練習する姿は感動的である。箱根では蔵原走は区間賞を獲得、一区をまかされたマンガオタクは最後まで走った。最終ランナーの灰二は右ひざの古傷に苦しみ、何度も倒れながらゴールに滑り込んだ。
 強豪大学がしのぎを削る箱根駅伝に無名大学の選手たちが出場可能なのか疑問に思う。だが映画はそれが可能だと明示する。挑戦こそ原動力である。
 「東海道53次駅伝競走」に話を戻す。日本初で画期的な駅伝は大成功であったが、22ヶ所の交代地での選手・役員の宿泊、自動車の手配、電話送稿などで経費が予算をはるかにオーバーし問題となった。責任は社会部長、土岐善麿にきた。嫌気が差した土岐社会部長は翌年の8月退社した。企業とはえてしてこういうものである。入場者がいささか心配な映画「風が強く吹いている」にはどのような風が吹くのであろうか。現在全国公開中である。