2009年(平成21年)9月20日号

No.444

銀座一丁目新聞

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花ある風景(359)

並木 徹

友人川井孝輔君の「ロシア紀行」

 

 友人の川井孝輔君が今年6月、「ロシア世界遺産9日間の旅」に参加(参加者25人)、その紀行文を400字詰め原稿用紙30余枚にして書いた。その一部を写真をつけて紹介したい。

 成田からモスクワのシェレメチェヴォ空港まではちょうど10時間。乗り換えの時間を入れて目的地のサンクトベテルブルク空港には、約14時間後の到着だった。驚いたことに現地時間では午後7時半というのに、日本の4時頃の明るさ。それに普通ならばバスが待っていてくれるはずのものが30分以上も待たされるのには呆れた。聞けば事故渋滞のせいだという。東京より寒いはずの気温は蒸し暑く、ようやく落ち着いたホテルには冷房がないには参った。家を出て19時間ぶりにようやくたどり着いたベッドだというのに。

§サンクトペテルブルグ観光
 サンクトペテルブルクはバルト海の北東、フィンランド湾の最奥部に位置し、ロシア帝国の首都として1703年ピョートル1世(1671〜1725)が創設した街である。1689年政権を担当したが、積極的にヨーロッパ文明の吸収に努め、自ら250名の使節団を率いて渡欧した。しかも偽名を使ってまでして造船技術その他を学んだという。また軍事的にも才覚を発揮し、スウェーデンとの大北方戦争に勝利して、バルト海の主導権を獲得した。その上内政面でも手腕を発揮し、聖ペトロを意味するこの街の創設に着手し、今日の基礎を築いたのだった。しかしながら家庭的に恵まれず、西欧化に反発する長男一派が無視できなくなると非情にも長男に死刑を命じている。
 エカテリーナ2世(1729〜1796)は、同じドイツ系の血筋を持つピョートル3世(1728〜1762)に嫁した。だが、無能・不能な3世に飽き足らず、無血クーデターで実権を握り皇帝を死に追いやっている。男勝りで豪放磊落だったらしく、この時には軍服の男装で指揮を取ったといわれる。一方領土拡張や文化・教育の面には熱心で、あのエルミタージュ美術館を残した。2男1女を得ているが、3人それぞれが異なる公認愛人との間に出来たものらしい。このほかにも多くの愛人を持っていたので、孫に当たるニコライ1世をして「玉座の上の娼婦」とまで言わしめたらしい。だが彼女は今なお尊敬の念を持たれ、一般には高い評価で親しまれているとのことであった。思うにピョートル3世が、血筋のドイツに心酔して国益を損じたのに反し、彼女はロシアに溶け込むことに努め、国益を第一に実行して民意を掌握したからに違いない。マリア・テレジアや西太后と並ぶ世界の女傑だと思うが我が国の政治家達も、国益を考える上ではまなぶところがあるはしないだろうか。
 観光のお目当てはもちろんエルミタージュ美術館。エルミタージュとは「隠れ家」をいみするエカテリーナ女帝の私有の美術館だった。ピョートル大帝・冬の宮殿を主体とし、その後に建てられた小エルミタージュ・旧エルミタージュ・新エルミタージュの4宮殿からなっている。ネヴァ川を背にし、正面は宮殿広場を間に参謀本部の長大な建物と対峙している。翠色の屋根の緑には数多くの彫像が並び、外壁面も彩色されて一際目立つ存在である。見学には従来のツアーでは考えられない程長い4,5時間を当て、後半には可なりの自由時間をも入れてくれた。80巻を予定する週刊「世界の美術館」では当館の必見作品として、マチスの「赤の食卓」・セザンヌの「パイプをくわえた男」・ゴーギャンの「タヒチの牧歌」レンブラントの「ダナエ」・ダビンチの「ブノワの聖母」・フラゴールの「内緒の接吻」を挙げている。
 元来絵の素養には無縁の私だが、それなりの好き嫌いがあると見える。レンブラント・ダビンチ・セザンヌには好感のもてるもののマチス・ゴーギャンの作品には余りその気がない。期待通り「ダナエ」はさすがにレンブラントらしい重厚な雰囲気だったが「ブノワの聖母」は精々期待外れ。これでもこれでもか、と出てくるヨーロッパのイコン画には聊か癖易する感触があるためだろう。逆にマチスの「ダンス」は見ごたえがあった。「内緒の接吻」は画家に馴染みが薄かったもののよかったと思う。美術誌で目をつけていた中ではルノアールの「女優ジャンヌサマリの肖像」とカラバッツジオの「リュートを弾く若者」が気に入った。カラバッツジオは今回初めて知った画家だが、殺人を犯した特異な画家とのことで、興味の眼で見たせいもある。もっとも観たといっても、感激はその場限りに終わりそうなので情けない。すぐ忘れてしまう脳なのだろうか、結局はガイドブックや「世界の美術館」などをめくりながら、記憶を確かめて居るのが実情である。所蔵品は270万とも300万ともいわれる世界指折りのものだが、宮殿だっただけに内部の装飾も転じ品同様に大変なものだった。入ってすぐの大使の階段を始め大帝の間・ナポレオン軍に勝利した時の英雄の肖像332枚を飾る1812年のギャラリーや黄金の間・孔雀の間等等、とにかく素晴らしいの一語に尽きた。

 川井孝輔君の絵の鑑賞は見事である。自分が「素晴らしい」と感じた絵が良いものである。
 さらに付け加えれば、1914年第一次大戦が起きた際、44歳のマチスが志願兵になることを申し出て軍当局から断られているエピソードを知れば川井君はマチスを好きになるであろう。ゴーギャンは絵だけでなく陶器も彫刻もその芸授性を疑う者はいないが彼が生きていた間は高い評価も代償も得られなかった。多情多恨なゴーギャンは1910年夏マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島で死んだ。この島に移り住む前にいたタヒチで自分の娘よりおさない少女たちと次々に肉体関係を結びながら、そこからゴーギャンの独自の絵が生まれた。潔癖な川井君からは想像できないゴーギャンの芸術の世界である。川井君がゴーギャンの絵に「余りその気がない」というのはもっともなことである。