2009年(平成21年)8月10日号

No.440

銀座一丁目新聞

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〔連載小説〕

 

VIVA 70歳!

            さいとう きたみ著

 

第五章 (つづき) 

夏男:その5

 

夏男がメキシコに移ってきてから最も強く感じるのは、ものの見方ということだ。同じ現象でも見る方向がことなれば異なったものにみえる。70年間、正常なもの、自然なものとしてうけとめていたものが、実は外国では全く逆な方向からみるため、そうとはいえないという体験にしばしばつきあたる。メキシコには特にそれが鮮明な実例としてある。例えば、具体的なものとしてはガイコツがある。日本ではおばけ屋敷の中ぐらいしか見ることができないが、このメキシコでは愛すべきものとして工芸品のみならず、アクセアサリーなどでもガイコツは多用される。特に11月の「死者の日」近くには街頭などにもそれを売る人が溢れ、室内や車にもごく自然に飾られる。可愛いペットなのだ。この意外さについてもメキシコ人に告げたところ、彼の返事がまことにユニークだった。
「日本に居たときハートのマークをほうぼうで見た。チョコレートから花束、カード、時には衣服にまでハートをつけている。ハートって心臓でしょう、僕には内臓をかわいいものとして扱う神経がわからなかった。」
夏男は虚をつかれたおもいであった。ハートを可愛いものとして見続けてきたので、内臓だなどと考えてみたことがなかったからだ。もうひとつ毎朝ものの見方というものに思いをいたらさられることがある。夏雄が原則として毎日泳ぐことにしているスイミングプールである。ごく小さなものなのだが屋外にあるため、どうぢても夜の間に枯葉や花びらが表面に浮いてくる。それをネットのついた棒でしゃくうのが毎朝の日課だ。枯葉や花びらは問題ないが面倒なのは昆虫である。蜂や蟻が水を呑みに来るのだろうか。相当な数が水面に浮いている。狭い水面なのに右側から見て全部すくえたものと思い、だが、1〜2メートルしかない反対側から見ると、まだまだたくさん残っているのを発見する。朝日がかがやき、明るければ明るいほどよりたくさんの発見をする。光と水の反射からそういうことが生じるのであろうが、この黒い点々が反対側からは全く見えないということに毎度のことながら驚される。このことを春介たちに話したことがある。春介がすぐに反応し、
「おい、気をつけろよ、比喩というものは知能指数が低いやつに限って多用するのだ。程度の悪い新興宗教の教祖たちなどが比喩を使って愚かな信者をたぶらかすのは、常套手段だ。」
それもそうなので、以後は他言しないようにしているのだが、この毎朝の体験のたびに自分自身に対してはものの見方によって見えるものが違ってくるということを言い聞かせている。メキシコを訪れる日本のジャーナリストや評論家、作家たちがメキシコについて書いたものを読むと、多くの人たちがこの国の貧富の差を問題にしている。例の一つとして、いわゆるお手伝いさん、つまり昔でいう女中や乳母の存在が未だにごく普通なことへの批判である。そのとおりで、夏男の家にも一日おきにメイドに来てもらい、3日に一度は庭師に来てもらっている。日本で女中や庭師に来てもらっていたら大変な出費であろう。逆にいえば、メキシコのそれらの階級の人々をまことに安く使えるということだ。このことについてメキシコの友人たちと話し合ったことがある。彼らの意見は夏男が日本では気づいていないものの見方だった。一人は言う。
「君、メキシコの社会での女性の進出が日本などに比し大変進んでいることを知っているかい。政治家や役人はもとより大学教授、医者、弁護士、その他、一般企業の幹部など実に多くのご婦人たちが男達と区別なく働いている。何故か、それはメイドを雇えるからなのだ。子育ての時、親が年老いて介護が必要な時、もしそれを何から何まで母であり妻であるご婦人がたが自分だけの手で行おうとしたら、とてもじゃないが、社会に出て活躍など出来るわけが無い。階級が存在するということには批判だけではすまない面がある。」
もう一人がつけ加えた。
「この間、我家に来てくれているメイドがセニョール、聞いてくださいというのだ。彼女、テレビで日本女性の現状という番組を見たらしいのだが、まず驚かされたのは、日本の女性の60%だの70%だかが大学に進むということだ。これはメキシコと比べれば恐るべき高水準だ。そして彼女がもっと驚いたのは、結婚後、いろいろな職についていることだ。これはメキシコと似たような状況だからよしとして、問題はその仕事の中身だ。もっとも多いのがスーパーやコンビニのレジだという。彼女曰く、日本に生まれなくて良かった、英文学や仏文学の学士たちがスーパーのレジをするなんて悲劇以外の何ものでもない。私のように無学でもこうやって子育ての手伝いや、上等な料理の調理方法などをお金をもらいながら学べるなんて本当に幸せだ。とこう言うのだ。階級差別に対して目くじらを立てすぎるのは、若いころかぶれていたマルクシズムの後遺症じゃないのか。」
これまた夏男にとっては考えてもいなかったものの見方で、俗にいう目からウロコが落ちた思いだった。メキシコに来てよかったことの大きな部分がそういうものの見方の多様性なのだ。侵略された国の国民というものが、占領はされても本当の意味で侵略にあったことのない日本の日本人というものと全く違ったアングルでものを見ることがあるというのは70才になる今日でも日常的に体験する。夏男の家にきてくれているメイドが中学生ぐらいの息子を伴ってきたことがある。この少年の言ったことも印象的だった。夏男の衣装戸棚にたくさんのTシャツがあった。海外旅行の折や、コンサートやイベント時に買い集めたものが数十着あったと思う。この少年は、Tシャツは3枚あれば充分だという。今着ているもの、洗濯してもらっているもの、そうして急なときに使うスペア。おじさん、毎日違うTシャツを着ても何ヶ月もかかるよ、と言うのだ。
このときも答えに窮したしたものだ。
夏男は65歳で退社したが、小さなプロダクションであるので特に定年制は決められていなかった。先輩の中には70才をこえる人も2、3人未だ現役で活躍している。しかし今、思い出しても腹がたつ事件に巻き込まれ、退社せずにはいられぬ立場に追い込まれたのだった。一言で言えば、それはジェラシーから発した陰謀だった。何年か続いて夏男の作品が高く評価され、いくつかの賞をとったことから、この陰謀はスタートした。夏男のプロダクションは独立プロであるからNHKを含めていくつかのテレビ局との共同作業で制作をする。オンエアーするテレビ局との十分な話し合いの上、制作する必要があるから当然オンエアー側の局からも責任者が出る。このいわばサラリーマンプロデユーサーたちが自己の立場を有利にするために作品の全ての成果を自分たちだけのものとして次回の企画からは夏男をはずし、自分たちだけで制作しようと考えたのだ。それも複数の局のプロデユーサーたちが密かに会い、示し合わせる行動に出たのだ。夏男の全くあずかり知らぬスキャンダルをでっち上げ、スポンサーの取得に力を持つ大手代理店のスタッフも巻き込んだ包囲作戦だった。夏男の専売特許のようなシリーズものまでが彼らのターゲットになった。勿論、そういう流れに反意をとなえてくれる仲間や友人もありこのドロドロした戦いは長期にわたった。こんなときにメディカルチェックで夏男はかなり重い糖尿病であることが発見され、強制的に入院させられた。長く続いた不規則な生活が遠因としてはあっただろうが、今回のトラブルから来るストレスが直接の原因であったろう。低度のうつ病の症状もみられた。病床に横たわりながら、これが引き時かもしれないと考えるようになった。テレビ番組の制作というものに少しずつ、少しずつ失望していたのかも知れない。所詮 電波というものは瞬間的に消えて行くもので、ビデオが残るとは言っても再放送されることは滅多にないし、家庭用に売れるものもタカが知れていた。高視聴率を確保するコツのようなものを体得すればするほどむなしい気持ちにもなった。根本的には、国営放送であるNHKのスタッフと大手広告代理店の連中の意見と方針には従ってゆかねばならない。もういいや、というのが本音だった。退職後は年金と保険とで30万円程度の月収であるが、メキシコに住むのだから何とかなる。押しとどめる仲間達の好意は好意として嬉しく受け止めながらも、40年ちかく働いてきたプロダクションに辞表をだした。彼を目の敵にしてきた連中があつまり、祝宴を開いたと後に聞いたが、もうそれも憤慨する気にもならなかった。そういえば、通常から自分でも多少気にしていたことに、業界ことばがある。朝でもないのに会うときはいつも「おはよう」といい、別れるときには「お疲れさん」というような現場の人間独特な会話である。夏男は最後までこの種の言葉を使わなかった。別に強い意志でそうしたわけでもなく、何となく好きになれないだけのことだったが、昨日、今日、この業界に入って来た若い連中がそれらを多様するなか、一人普通の会話をする夏男を彼らはどこの素人かという目で見ることもあった。学生時代から50年ちかいプロ中のプロとは誰しもが思わぬことなど夏男本人はさして問題にしていなかったが、もしかしたらこの業界に馴染むには初めから向いていなかったのかもしれない、そうも思うのだった。いずれにせよ、終った。
病床で暗くはあったがある種の開放感がこみ上げてきたのも事実である。夏男は自分の退職をおおくの人につたえなければならなかった。それだけおおくの人々にお世話になったともいえる。
70才近くでも、あるいはそれ以上でも現役で働いている人たちからは、おおむねお叱りをうけた。アメリカ人のジャーナリストで長く日本に赴任していた友人の反応は、意外なものであった。
どうして辞める気になったかをしきりにたずねるので、大略のことを話すと彼は大きく頷いた上で、こう言った。「日本人をひとことで表現すると「ジェラシー」という言葉だ。日本に来て最もつよく感じるのは日本人は、「ジェラシー」を生きてゆくバネにしている。これは日本人自身があまり気づいていないが、外国人から見るとそうなのだ」という。夏男はそんなことを考えてみたこともないので、そういう見方もあるのかと改めて驚くのだった。
 

(つづく)