2009年(平成21年)5月20日号

No.432

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追悼録(348)

梨本宮伊都子さんのことなど・・・

 日本記者クラブ会報(第471号・2009年5月10日発行)に皇太子ご夫妻成婚50周年にあたり、当時の取材苦労話を次のように書いた。
 「皇太子妃取材で女性記者が活躍したことがあまり知られていない。毎日で正田美智子さんが皇太子妃の最有力候補との情報を掴んできたのは古谷糸子記者(故人)であった。学習院の同窓会組織、常磐会などを担当。会長の松平信子さんに信頼されていた。昭和33年5月のはじめであった。美智子さんの担当が宮内庁記者になった後もくさらず、サイドストーリーをコツコツ取材した。それが正式発表の朝、8ページ号外(朝日2ページ、読売半ページ号外)となって結実する。時に45歳、笑顔をたやさず、物腰が柔らく、芯が強かった。後に清宮さまと島津久永さんの婚約をスクープした。最近『知らずしてわれも撃ちしや春蘭くるバーミアンの野にみ仏在さず』の歌を美智子皇后の作と知った。当時の取材の苦労は50年の歳月の重みに喜びと変わった」
 この原稿を書いた時、私は松平信子さんの姉が梨本宮伊都子さんとは知らなかった。李方子さんのことを調べているうちに二人が姉妹であるのがわかった。父親は侯爵鍋島直大さんである。松平信子さんは外交官、松平恒雄夫人であり、秩父宮妃勢津子さんの母親である。松平信子さんが梨本伊都子さんの妹であれば、古谷糸子記者に皇太子妃有力候補の名前を漏らしたのはそれなりの理由があったような気がする。やはり“事件”には表もあれば裏もある。当時、旧華族が民間からの皇室入りに反対しているという話を聞いていたもののそれほど深く心にとどめていなかった。
 梨本宮伊都子さんが正田美智子さまのご婚約を不愉快な感じを持たれているのを初めて知った。まことに迂闊な話である。伊都子さんは前々号の「追悼録」で取り上げた李方子さんの母である。正田美智子さんが皇太子とのご婚約が発表された昭和33年11月27日の日記にその心境を書いている。「午前10時半、皇太子殿下の妃となる正田美智子の発表。それから一日中、大さわぎ。テレビにラジオに騒ぎ。朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝からご婚約発表でうめつくし、憤慨したり、情けなく思ったり、色々。日本はもうだめだと考えた」
 和歌も残している。
 「あまりにも かけはなれたる はなしなり 吾日の本も 光おちけり」
 「ことほぎのぶる こともなし あまりの事に言の葉もなし」
 (渡辺みどり著「日韓皇室秘話李方子妃」(読売新聞刊・平成10年10月12日発行)
 あまりにも自分の気持ちを率直に表現した和歌である。当時毎日新聞で皇太子妃取材班の一員であった私は皇室が初めて民間から皇后さまをお迎えになると手放しで歓迎していただけにこの日記は驚きであった。
 伊都子の娘方子さんは昭和天皇の有力なお妃候補の一人であった。それが日韓融和のために異国の王朝に嫁いでいった。話があったのは大正4年秋のことである。波多野宮内大臣から朝鮮の王世子李垠殿下との話があり「お国のためです」と勧められた。方子さんは15歳であった。当時は何事も「お国のためです」でまかり通った。伊都子さんの無念さもわかるような気がする。伊都子さんは昭和51年亡くなった享年94歳であった。娘李方子さんは“韓国のオモニ”と慕われ、平成元年4月30日ソウルで87歳の生涯を終えた際、その葬儀は準国葬なみで盛大に行われた。人間が幸せであったかどうかは「棺をおうてきまる」。今年もまた5月10日、ソウル近郊南楊州市にある陵墓「英園」で方子さんを偲んで墓前祭が行われた。出席者は年年少なくなっているがそれでも今年は100名を数えたという。地下に眠る伊都子さん。娘方子さんは李家に嫁いで良かったのではないか。もう詠んだ和歌のようなお気持ちはもうないものと、私は信じたい。
 

(柳 路夫)