2009年(平成21年)2月10日号

No.422

銀座一丁目新聞

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追悼録(338)

同期生の慰霊の軌跡「防人の道標」

 同期生の永渕寿人君(福岡県小郡市在住)がこの2年間で久留米一円の忠霊塔、慰霊碑、自衛隊の駐屯地・基地を訪ね、それを「防人の道標」(101ページ・写真120枚の冊子)にまとめた。訪ねた市町村は24ヶ所、忠霊塔・慰霊碑は180余にのぼる。国の平和と安全に対する関心がとみに薄くなっている世相に「身を挺して国難にあたり戦死された方々、訓練で思い半ばで殉職された方の慰霊はどうなっているのか」との思いから永渕君の「慰霊の旅」が始まった。この冊子を送ってくれた同期生野俣明君(北海道恵庭市在住)の話では戦後、永渕君は自衛隊に勤務されたと聞く。それにしても行動力のある同期生である。「防人の道標」をすべて紹介するわけにはいかないが、私が感じるままに記す。
 たとえば河北エリア(11市町村)の東峰村では追悼行事を合併により平成20年から宝珠山地区と小石原地区合同で慰霊祭を2年に1回いずれかの地区で交互に実施とある。小石原地区の浄満寺の慰霊堂は野上義浄翁が寺内に建てたもの。野上さんは先の戦争に学徒動員で陸軍将校に、終戦で帰郷するや村内の戦死者(101柱)を弔うため献身的な活動の末昭和25年に建立と記す。朝倉市の志波神社(117柱・志波)は宝満宮境内に戦没者の神社として建立された。甘木地区には「特幹の碑」(甘木丸山公園内)がある。建立は平成10年6月。大刀洗陸軍飛行学校甘木生徒隊第1期特別幹部候補生により建立された。「特幹の歌」も刻まれている。甘木女子挺身隊の碑もある。建立は昭和59年9月。碑文に歌が刻まれている。
 「くちなしの花咲く夕べ 静かなり
  やめよたたかい 敵も味方も」
 吉野ヶ里町の忠魂碑(東背振)には日清、日露戦役、大東亜戦争の戦没者のご芳名銅板が設置されている。なお昭和31年当時、村の財政が厳しく47万円の建設費30万円は村民の浄財によるとある。「大刀洗平和記念館」の本館は昭和62年10月建設。特攻基地であった大刀洗飛行場から出陣したパイロット及び各地から寄せられた遺品、備品を集めその事績を後世に伝えようと設けられた。ここには97式陸軍戦闘機(平成8年9月10日博多湾から引き揚げられたもの)が展示されてある。私の手元にある資料によれば97式戦闘機による沖縄特攻は48回も行われている。昭和20年3月29日沖縄・中基地を発進した「陸軍特攻誠第41飛行隊」の4機から同年6月11日知覧を発進した「陸軍特攻第215振武隊」の1機まで161の特攻機を数える。冊子には振武72飛行隊陸軍伍長荒木幸雄を紹介する。(略歴)昭和3年生まれ群馬県桐生市出身、少飛5期、昭和20年5月27日伍長で万世より出撃散華、戦死後4階級特進で陸軍少尉。遺書まである。時に17歳である。この日5月27日には知覧から「第431振武隊」5機、鹿屋から「神風特攻菊水白菊隊」20機がそれぞれ沖縄に出撃している。見学者年間約2万人。
 鳥栖市の「サンメッセ鳥栖」には二人の特攻隊員が弾いたピアノが保存されている。昭和18年10月、目達原飛行場に大刀洗陸軍飛行学校目達原分校が開設された。多くの荒鷲が養成された。やがてここも特攻基地となる。二人の特攻隊員は鳥栖小学校に行き、今生の思い出にとベートーベンの「月光」を弾いた。ピアノは鳥栖市婦人会が寄贈したドイツ製のグランドピアノ「フッペル」であった。元飛行場正門に御影石の碑がある。「桜咲く 基地を飛びたち 南海に 散りし若鷲 しのぶ門柱」と刻まれている。
 基山町には「いつくしみの塔」がある。大東亜戦争で命を落とした日本人、台湾、タイの身元不明者(遺骨収集)を祀ってある。タイ、ビルマ方面戦没者追悼委員会の遺骨収集が平成2年から6年間実施された。とりわけNPO慧燈(特定非営利活動法人)ではタイ、ミャンマーの貧困家庭の子供達の里親になって学資を支援する制度を設けている。
 野中町の久留米競輪場内に「ドイツ兵俘虜慰霊碑」がある。説明板に次のように記されている。鎮魂の詩(ドイツ語)
 「運命の力により、剣を奪われ
  捕らわれの人となり 黄泉の国に去った汝ら」
 第一次大戦大正3年10月から大正9年10月までの間全国に12ヶ所の俘虜収容所が設けられた。久留米収容所は多いときには1319名に達した。収容所で戦場の傷が元でなくなった者2名、病死9名、この人達を追悼するため慰霊碑をこの地に建立した」
 この間、俘虜の生活のなかでは市民との音楽会、スポーツ大会、作品展示会なども行われた。ドイツ兵捕虜コンサートや花見(大正4年6月19日)の写真が添えられてある。
 「戦車の碑」が國分町の陸上自衛隊久留米駐屯地内にある。大正4年にこの地に日本最初の戦車隊が誕生した。大牟田市の藤田天満宮内にある「被爆戦没者の碑」(建立平成7年8月)には昭和20年8月7日と18日の空襲(米機)でなくなった98名と戦没者35名計133名と朝鮮人の方と及び米兵が数名祀られている。
 昭和20年4月7日戦艦大和で沖縄に出撃、敵の攻撃を受け大和と運命を共にした第2艦隊司令長官伊藤整一大将(海兵39期)の墓がみやま市にある。長男叡海軍大尉(海兵72期)も昭和20年4月28日沖縄伊江島上空の戦闘で戦死している。
 永渕君は「当初予期もしなかった遺族の方、地域の方、市町村遺族会役員の方との出会いもあり、いろいろ話を承る内に感銘を受け続けた日々それは私にとって新しい心の財産をいただいた時でもあった」と最後に結ぶ。
 いくら平和になったと言っても国のため命を捧げた英霊の武勲は永久に伝えてゆくのは当然であり、その御霊を慰霊すべきであるのは論を待たない。素晴らしい同期生を持ったものである。

(柳 路夫)