2009年(平成21年)1月20日号

No.420

銀座一丁目新聞

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〔連載小説〕

 

VIVA 70歳!

            さいとう きたみ著

 

第一章 (つづき) 

夏男その1

 

夏男は70才になる朝、教会の鐘の音で目覚めた。いつもながらここメキシコの田舎町のさわやかな朝日が心地よい。もうこの地に住むようになって5年がたつ。日本でのテレビ制作の仕事を65才の時に退職し、妻のカンナが住むメキシコへ越してきたのだ。70才ということにさしてこだわりがあるとは思えないが、高校時代、級友の冬彦から教わったW・B・イエイツの詩の一部は何故か覚えている。この詩人が自らの老齢を嘆いて書いた詩の一部 “An old man’s eagle mind” という一節で、メキシコの国旗の中央にいるこの猛禽の心を老人が持ち続けることを何とはなしに心強く思っていたからであろう。夏男は老いていく自分が思い切ってメキシコという日本からは遠く離れた国へ移り住めたことを本当によかったとあらためて思うのだった。夏男の妻カンナは日本人ではあるが、ニューヨークの名門音楽学校を卒え、その後、現地でデビューし頭角をあらわしたフルーティストであった。アメリカ人のピアニストと結婚し永くコンビを組んでいたがその後離婚を契機にメキシコに渡り、この国の住み心地のよさにそのまま居続けている。約20年前、夏男は50才になる直前制作した「海外で活躍する日本人」という連続もののテレビ番組で知り合い互いに再婚を決意したのだった。ニューヨークで教育を受けその後もその町中心に活動してきた反面、カンナは短歌を作る趣味があり日本の新聞や雑誌に投稿し、時には入選したりしており、そういう日本の伝統文化に関心が深いのも彼女の魅力の一つでであった。二人が一緒になることになってから夏男と新しい妻のカンナは互いに異なる国に住みながらもスケジュールを調整し合い年に数回は共に暮す生活をする努力を続けてきていた。日本で仕事をする夏男は通常は仲間よりもつめて働き、なるべく長期の休暇をとれるように努力し、カンナも多少、条件は悪くとも従来よりも日本でのコンサートを優先するようにしていた。二人が会うといつもながら話題になるのが“終いの住処”についてだった。まだカンナの両親は存命だったし、夏男の母も寝たきりとはいえ東京郊外の病院で生きていた。だからすぐにどこかの国に移るという現実的なタイミングでじゃなく、いずれ老後はという前提である。一種の空想プランであるから、この話題は二人にとってまことに無責任な楽しい時間の過ごし方であった。夏男は高校時代に見た確か「過去をもつ愛情」とかいうタイトルのフランス映画で主演のダニエル・ジェランが
「旅はお好きですか?」
という質問に答え
「ええ、特に出る前が・・・・」
という台詞を覚えている。勿論フランス語が分かっていたわけでもなくスーパーインポーズの日本語で知ったのだが何とも粋な言葉だと今も忘れない。まさに二人の会話はそのとおり旅に出るまえの境遇であったから楽しくないわけがない。カンナには子供がいなかったし、夏男の二人の子供もすでに大学を卒えそれぞれ望みの仕事についていた頃なので親離れはまだであっても子離れはしていた。夏男の退職後は二人だけの勝手な気分でどこの国、どこの町にでも住めると思うことは心身の開放になる。
気候や食事、言語の点からまずアジアとアフリカが対象からはずされた。英語圏ではあるが次にカナダとオーストラリアが消えた。歴史が浅いことと、文化の熟成度にいささか疑問があったからだ。二人してスキーやゴルフ、マリンレジャーなどに関心がないこともその理由の一つだった。ヨーロッパの国々についてはそれぞれどこの国も魅惑的で夢物語になるかもしれないこの計画に時には真剣な議論さえ生じるほど熱心に話しあった。ポルトガルの港町とイタリアの田舎町がヨーロッパの最終候補に残り、結論を二人は次の逢瀬までの宿題にしたりもした。今の時代にはそんなことは少ないのだろうが、彼ら二人が若い頃、ヨーロッパではしばしば思いもよらぬ人種差別めいたドキっとするような体験をしており最終的にはこの両国も目標からはずれた。残るはアメリカ、中南米、特にニューヨークという町の魅力はカンナが体験者として良いこと悪いことのそれぞれを加味してもなお、有力であった。ミッドタウンに老人二人が住める小さなアパートであれば入手も可能だろうし、毎週末に訪れるコンサートや芝居のことを思うと胸が躍る。人種差別や食材については問題が少ない。が、結果は何のことはないカンナの住んでいるメキシコが最終的にその目的地となった。理由はメキシコに住む一人の日本婦人の家を訪れたことに始まる。この女性は国際的なヴァイオリニストで著書も多く、ある意味で日本とメキシコの親善に最も力をつくしている日本人かとも思う。カンナがメキシコに移ってきた時にも無意識の中にこの人の存在が色濃くあった。メキシコに40年近く住んでいるこの人のことを人々はマエストラ・Y子と親しげに呼ぶ。全く飾り気のない人柄で、有名であるにもかかわらず誰とでも気さくに接し、日系人社会ともつかず離れずの存在で何の役職もなく音楽界に於いても誰知らぬ実力者であるのに一切の権威から遠ざかっている。長くメキシコの子供たちのための弦の学校を開いているが、恐らくは多くの時間と少なくはない私費もつぎこんでいると思われる。何故ならば優秀な生徒たちの多くは貧しい家庭の出身で奨学金を貰っているというのだ。マエストラ・Y子はメキシコ市内のコヨアカンという昔から文化人や芸術家が好んで住む場所に学校と居をかまえているのだが、メキシコ市から車で一時間半ばかり離れたモレロス州の田舎に別宅をもっていて、ここで毎年のように開かれる音楽家たちのパーティーにカンナが招かれ、夏男も同行したのだった。三千坪(約10,000m2)近い土地に150坪(500m2)ほどの建物があるという日本人からみれば大豪邸であるが、マエストラにいわせると土地、建物を含めて全部で五、六千万円ばかり必要だったけれど日本のマンションを売ったらお釣りがきたというのだ。夏男とカンナは互いに眼をみつめあい、彼らにも程度こそちがえこの種の生活が可能であることを悟ったのだ。
マエストラの別邸は二階建てであるが各フロアの天井が高いので通常の三階分の高さを感じさせる。町でも一番高い丘の上にあるので、屋上に(ここはスカイバーと呼ばれていたが)上がると最近 世界遺産となった町で一番高いバプティスタの教会を見下ろすかのように眺められ、東には雪をいただく標高六千メートル近いポポが見え、周囲360度が視界におさまる。毎夜 夕陽が沈む西側にはジョン・フォードも度々彼の西部劇の舞台として使ったという恰も中国の桂林ではないかと思うわれる不思議な丘がつらなる。
「百万ドルの夜景とはいえないけれど五千ドルぐらいはある」
マエストラは笑う。メキシコ市の保養地として有名なココヨックやオアステペックが眼の下だ。ご夫妻のメインベッドルームは別として他に四つの寝室があり多くの客を招ける。小さいながらプールもあり、池にはティラピアが数百匹泳ぎまわり睡蓮が咲く噴水には色さまざまの金魚がいる。庭は十分に広く芝生地をすぎると各種のサボテンのエリアがあり、一番高いのは五メートルを越える。地面には白い砂利がしきつめられていてこれはマエストラに言わせると京都の石庭のコピーだそうだ。サボテン園の周囲には各種のオレンジに加えグレープフルーツ、バナナ、ライチ、仏手柑などなど。椰子も数種あり10メートルを越すであろう大木もある。
「植えた時にはステッキみたいだったけど五年もすれば大木になるの。面白い国よ。」
マエストラの眼にはこの国を愛しているという確信があった。周囲をかためる高いアドベの塀にはこの国の定番ともいえるブーガンビリアが赤、ピンク、朱、橙、紫、白、しぼり、八重と競いあうかのようにおおいかぶさっている。来客の何人かがパラダイスのようだと感嘆している。わけても夏男が魅入られたのは犬たちだった。客がいない時はこの庭で放し飼いなのだという五頭のシェパードが庭の奥のこれまた二、三十坪はあるかと思われる犬舎にいる。アレグロ、プレスト、ピアノ、チェロ、ヴィオラなどという音楽家らしい名をもらっている。子供時代から大型犬を飼うのが夢だった夏男だが東京のアパート暮らしではそれもままならず代わりに買った小型犬さえ、勤務が不規則な夏男には定時の散歩さえ満足にできず家族からのブーイングで手放してしまった苦い思い出もある。夏男とカンナはマエストラにあやかりメキシコの田舎町に住むことをほぼ心にきめたのだった。

(つづく)