2008年(平成20年)12月1日号

No.415

銀座一丁目新聞

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追悼録(331)

小村寿太郎と6ヶ国協議

 6国協議が12月はじめから開かれそうである。米国は北朝鮮の核放棄に懸命である。北朝鮮のテロ指定も解除した。北朝鮮は核放棄をしないと思う。「核放棄」を餌に6ヶ国協議を続けているにすぎない。もちろん拉致問題も解決する意思はないと見る。だが外交交渉は粘り強くやるほかない。日本に名外交官はいないものかと思案していたら産経新聞に掲載された小村寿太郎の次の言葉が飛び込んできた(11月26日付。明治44年のこの日、小村寿太郎が56歳で死去する)。「外交官は嘘をいってはなりません。どうせ一度は素晴らしい大嘘をつかんけりゃなりませんから、平常嘘が多いと効目がなくなります」
 小村寿太郎は日露戦争で外相として講和会議の全権代表となり、ロシア側全権・元大蔵大臣、伯爵セルゲイ・ユリエウィチ・ウイッテを相手に何とか講和会議をまとめた。その名外交官にしてこの言である。今の日本の外交官でヒノキ舞台の外交の場で一世一大の大嘘をつけるものはいまい。明治の藩閥政治の中で宮崎・小藩飫肥藩の出身である小村が外相になったのは奇跡に近い。もともと子供の時から学業にすぐれ大学南校では2番で卒業、第1回文部省留学生として渡米、ハーバード大学で法律を修め帰国後は司法省を経て外務省に転じた。父が残した借金で苦しみ高利貸しに攻められ生活は苦しかった。友人たちの尽力でその苦境を切り抜けたものの行政整理で翻訳局が廃され仕事を失った。救ったのは外相の陸奥宗光であった。人生にはこのようなことがまま起きる。「縁」というほかない。北京公使館の代理公使となる。左遷でしかも閑職であった。彼は暇な時間を清国研究に充てる。記録を読み、欧米人の清国関係の書物を読み漁った。総理大臣李鴻章をはじめ各国公使と会い、北京クラブで欧米人と交わり彼らの清国観を聞いた。これが明治27年6月の日清戦争に役立った。小村公使の機敏で綿密な情勢報告と的確な予測を受けて清国との開戦を回避不能と判断した。このとき小村は講和条件についても十分研究しておくべきだと進言している。明治27年9月には第1軍司令部付きで清国領安東県の民政庁長官となる。そこでの抜群の働きが第1軍司令官山県有朋大将、第3師団長桂太郎中将らの目にとまり、知遇を得る。明治34年には桂内閣の外相となる。これまでは背後に藩閥か政党が控えていなければ不可能な人事であった。その人事を可能にした のは小村がいかに優れた人物であったかという証左である。外相時代伊藤博文の反対をおしきって日英同盟を締結する。これが日露戦争をいかに有利に進めたか計り知れない。
 日露講和会議後多くの期待を寄せた国民の怒りは強く暴徒が外務省、警察、新聞社を襲った。この一連の騒動で検挙者は3百余名、首謀者と目された12名はいずれも証拠不十分で無罪となったほかは有罪となった。内務大臣吉川顕正と足立綱之はこの事件の責任を取って辞職したと「警視庁史」(明治編)はつづる。
 帰国直後、次男の捷治さんから事情を聞かされた小村寿太郎は「なアに、国民にそのくらいの元気がなくちゃいけない」といったという。そいえば私が中学校時代を過ごした大連の小村公園に小村寿太郎の銅像があった。椅子像で小村寿太郎が何か良いアイデアが浮かんだ時に椅子から身を起こそうとする姿勢であった。この公園は桜、紅葉と四季の花が美しく、散歩に訪れる人が少なくな かった。戦後取り壊され、名前も魯迅公園と変わったと聞いた。
 

(柳 路夫)