2008年(平成20年)1月1日号

No.382

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安全地帯(201)

信濃 太郎

壱岐・対馬旅行写真に感あり

 友人霜田昭治君から「壱岐・対馬旅行記」(昨年10月11日から13日)をいただいた。写真42枚(ほかに地図2枚あり)を中心としたもの。写真家としてもプロ級の腕前の霜田君だけに旅行の模様をこまかく撮影している。博多港で高速フェリーに乗船するところから太宰府天満までを拝見するとさまざまなことが想像されて実に面白い。写された神社を柱にして霜田君の旅行記を忠実に辿りながら私なりの絵解きをしたい。
第一日午後2時過ぎ、対馬・和多都美神社を訪れる。祭神は豊玉姫命と彦火火出見命。海幸彦と山幸彦の伝説の発祥地という。
午後4時過ぎ小茂田濱神社を訪れる。祭神は対馬の守護代宗助国、斎藤資定、ほか戦死者。「対州神社誌」によれば宗助国の尊霊を師(いくさ)大明神とし、武勇抜群の斎藤兵衛三郎資定を従祠したとある。文永11年(1274)10月高麗の軍を交えた元軍3万余りの軍隊と900隻の軍船がここ小茂田浜に攻め込んだ。この時、宗助国はわずか80余騎出迎え討って玉砕した。元軍は対馬と壱岐の島々を荒らし10月19日博多湾に攻め込み20日上陸を開始した。迎え撃つ我が軍は九州の武士を中心に総勢1万足らずで太宰府まで退却を余儀なくされた。20日夜、神風が吹いて元の船は殆どで沈没、1万3千人が死亡、残る兵士は高麗へ退却した。
対馬といえばこんな思い出がある。毎日新聞の西部代表の時、同期生から「女房がなくなったら遺骨を海に沈めてほしいと、遺言して死んだ。なんとかならないか」と相談を受けた。丁度そのとき、西部本社へベルの最新鋭のヘリコプータが配置されて、試験飛行に試乗するチャンスができた。そこで同期生を乗せることにした。その同期生は風呂場で骨壺が実際に沈むのを確認し、弁護士に海への散骨が法的に問題ないのかを確かめて散骨に臨んだ。当日は快晴で海は穏やかであった。新品のヘリは小倉飛行場から対馬沖まで飛び、その付近で海面10メートル近くまで降下、骨壺を落下させた。同期生が手を合わせる中、無事に沈んでいった。昭和60年初夏の頃であったと記憶する。
午後5時半「万松院」。宗家20代義成が父義智の冥福を祈って1615年建立し菩提寺とした。天台宗延歴寺の末寺で本尊は11面観音。寺宝として朝鮮国王から送られた青銅の三具足、高麗仏(観世音菩薩半枷像)、高麗版の経文,明の絵画(漁樵問答図)などがある。
旅行記にはないが、対馬・美津島町には「忠勇」と題した松村安五郎の碑と[「義烈」と題した吉野数之助の碑がある。「忠勇」の顕額は陸軍中将三好重臣。三好中将は山口の人で熊本・東京各鎮台司令官や枢密顧問官などを歴任している。「義烈」は陸軍大将乃木希典。文久元年(1861)4月13日外浅海に侵入したロシアの軍艦ボサドニックの短艇が番士の制止を無視して強行突破しようとしたことから松村安五郎がロシア艇に薪を投げ、身を呈して通行を阻止しようとしてピストルで射殺された。吉野数之助は傷ついてロシア兵につかまり、舌を噛んで自決を図った。身柄は露艦から返され、数日後の息ををひきとった。二人とも明治24年靖国神社に合祀された。対馬藩の番士もこのような形で靖国にまつられているのを知った。
第二日午前9時頃壱岐に向かう。芦辺港から観光バスで数分のところに「弘安の役・瀬戸浦古戦場跡」がある。弘安4年(1281年)壱岐を守備していた19歳の小貳資時が討ち死にしたところである。石積の古色蒼然とした塚が資時の墓であると分かったのは明治31年のことであった。昭和19年に壱岐神社本殿が造営される。季節外れの桜が咲いていたという。
12時半古戦場近くにある玄界灘に浮かぶ「左京鼻」を訪れる。近くに左京鼻龍神神社がある。
午後1時八幡浦の「はらぼけ地蔵」。六地蔵は(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵である。腹がえぐられているのでこの名がある。遭難した海女の冥福のため、鯨の供養のためなと伝えられている。地蔵が衆生の苦しみを除いてくれる菩薩として信仰されるようになったのは日本では平安末期からだという。
第三日午後3時太宰府天満宮に詣でる。天満宮は雷様の別名である。菅原道真が左遷された太宰府の宿舎はいまの榎寺であった。雨はもり、風は吹き入るあばら家で、貧しい食事と病気に悩んだと伝えられる。延喜3年(903)榎寺で「東風吹かば匂い起せよ梅の花主なしとて春を忘るな」という名歌を残して一生を終えた。
対馬藩で忘れていけないのは儒学者、雨森芳州(1668−1755)である。朝鮮外交心得「交隣堤醒」第1条には「朝鮮交接の儀は第一に情、時勢を知ることが肝要である」とあり、また54条には「お互いに欺かず争わず真実の心をもって交わる」とある。朝鮮通信使は対馬には12回も訪れている。使節たちは芳州の学識の深さに感嘆したという。今の日本外交を見れば江戸ははるかかなたのことである。だか歴史から学ぶことができる。

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