2008年(平成20年)1月1日号

No.382

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花ある風景(297)

並木 徹

英霊は靖国神社をこう見る

  作家、内田康夫は英霊を「タイムスリップ」させて靖国神社への思いを語らせた、小説「靖国への帰還」(講談社)を書いた。文句なく面白い。私より9つも若い作家がよくぞ書いたと思いがする。読後の感想に「ぬば玉の闇を貫く光こそ愚かなる身のいのちなりけり」をささげる。
 海軍予備学生13期の武者滋中尉は昭和18年9月10日土浦海軍航空隊に入隊,ここで基礎訓練を受け、上位の成績で卒業、偵察専修教程に入る。昭和19年5月には全課程を修了、海軍航空士官として厚木航空隊に配属される。288名の同期生のうち100名ほどがサイパン、テニアン、フイリッピンなど第一線へ派遣された。武者の任務は「本土防衛」。ここの司令は小園安名大佐。小園大佐は自ら開発、推進した「斜め銃」を夜間戦闘機「月光」に搭載、大きな戦果をあげた。(小園大佐のもと厚木航空隊はB29を200機以上、戦闘機を含め600機を撃墜・損傷する戦果をあげたと戦記は記す)
昭和20年5月25日、武者の「月光」機がB29を撃墜したあと被弾、操縦士は戦死、武者も意識を失った(未帰還機として操縦士とともに靖国神社に合祀される)。
気がついたとき武者は米軍が管理している厚木基地の病院にいた。大正13年9月20日生まれの武者は医師、自衛隊員、内閣調査室員と話が合わない。平成19年6月20日なら武者は82歳である。それが昭和20年6月20日なら20歳である。時空の壁を破って62年後の世界に移動したのである。
 英霊として靖国神社をどう見たのか。まず靖国に祀られることの意義について、「戦地へ、死地に赴く者にとって自分が死んだ後,単に墓に葬られるだけでなく、靖国神社に祭られ、国民の感謝と哀悼の意を捧げられることを信ずれば、どれほど励みになるかしれないじゃないですか。自分だってそう思って戦友たちと、事あるごとに『死んだら靖国神社で会おう』と言いかわしていました。自分自身を、戦友を、そう言って激励しあったといってもいいかもしれません」(大正14年8月31日生まれの筆者は昭和18年4月陸軍予科士官学校に59期生として入学、昭和19年10月13日卒業、厚木の対岸にある本科の歩兵科の士官候補生として入校した。敗戦時、厚木航空隊が徹底抗戦のビラをまいたのを知っている。予科時代、日曜外出の際は必ず靖国神社を参拝した。いずれは靖国に祀られると思っていた。現に同期生12人が合祀されている)
次に戦意発揚の意図について、「靖国神社創建の趣旨は、単に戦死者を慰めるものだったとしても、結果として戦意発揚の場となって、何の不思議もないと思いますがね。それを後になって、時代が変わり、情勢が変わったからといって、あれは間違っていたと非難するのでは、我々が抱いていた信念そのものを、全否定するようなものではありませんか。靖国神社へ祀られることを信じて死んでいった者たちがもしこのことを知ったらどんな気持ちで何んと言うでしょう」
A級戦犯合祀問題について。「亡くなられてからも,指弾し続けるのは、はたして正義なのでしょうか。略 戦勝国によって一方的に裁かれるのは、おかしいではありませんか。日本が侵略を犯したと非難するのなら、それまで列強とよばれる諸国がアジアを植民地化した『犯罪』もまた裁かれるべきではないですか。戦争による虐殺行為があったことを裁くなら、広島や長崎に原子爆弾を落とした行為の責任者だって裁かなければいけないはずです。略 すでに処刑され、罪を償った人々に対してまでも許すことをしない,そんな可哀相な…しかも同じ日本人がそれでいいのでしょうか。自分にはその考え方が理解できません」(私はA級戦犯という言葉は使わない、昭和殉難者、または法務死とする)毎日新聞の同期生に海軍予備学生13期の高橋久勝君がいる。艦爆「慧星」搭乗,特攻隊員。高橋君の句に「雲の峰沸き立つ南友ら征く」 である。

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