2007年(平成19年)4月1号

No.355

銀座一丁目新聞

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自省抄(62)

池上三重子

 1月20日(旧暦12月1日)土曜日 曇りときどき晴れ(大寒)
  ・秋の日の穂の上に霧らふ朝霞
いづべの方にわが恋ひやまむ
  ・君が行く道の長手をくりたたね
   焼きほろぼさむ天の火もかも
 今暁の寝覚めのひととき不意に仁徳天皇后・磐媛のお歌が浮かんだ。嬉しかった。嫉妬深かったという后の心に同情も深い。
 男性とて変わりはあるまい。
 より深いかも知れない。
 杳い日を省みて揺れ易く一途でなかったことを思い出し、愧ずかしく切ない。「覆水盆に還らず」という言葉を知ったのもそのときである。大百姓の長男に生まれた彼と結婚の約束をしながら、「嫂の付き合いはしきらん!」と言われるのを、なるほどと聞いたことにもよるが、別れの手紙を書いて一週間手もとに留め置き、もう大丈夫、とふっきれたところで手渡したのだった。相手が驚愕、頭にきて一時錯乱、それを知って何処か遠いタヒチ島にでも行って付きっきりで看取ろう……と。真剣だった。大真面目だった。単なる一過性のものだった。
 白絹で包んだ函には短刀が入っていて、それが彼の誠の誓詞だった。私の優柔不断さに比べ、何と毅然とした青年らしさであったことか。会いたいと電話すれば……甥の隆昭は膝に抱かれた記憶もあって小父ちゃんと呼ぶが、青春の純な思い出は私にとって宝物。翁と媼の対面だが、濁りない若い日の交流は濁りないまま、タクシーで駆けて来てくれた。 あの日、「苺を持ってくればよかった」と呟いたからきっと出荷用に栽培しているのであろう。
 初ちゃんが持参してくれたチューリップと芯が黄色の菊は初めてのもの、改良は日進月歩ならぬ時々刻々というべきか。

 天気予報は気温は上がらぬと告げたが、うらうらうらの小春日和。楊柳の並木の土手を這いつくばる芹を見出したときの慶びが忘れがたく甦る一瞬……そうそう、家の前、リヤカー一台がやっとの農耕道をはさんだ田圃の持ち主は、道端に芽立つ若草を摘んでいても、不透感あふるる面を向けて目をむいたものだ。彼が農具を扱っていて感電死したときは天罰だと思った。天は罰せず、と信じるようになるには八十三年を要したわけである。
 今日は大寒。藺田には氷が張り、学童たちは登校時に平たい石を拾っては滑らせて競っていた。
 そんなとき母は……ああ、母上よ。なつかしくてならぬ。
 母上よ! 酸素していてさえきつい体調。ペンを擱きますね。

 1月25日(旧暦12月7日)木曜日 曇りのち晴れ
 今日は月例誕生会。この日の食事のたのしみは一つ、刺身とツマの千切り大根。次いで茶碗蒸といったところか。
 誕生会に参列したことはないが厨房も出勤職員も、二階居住の人々を会場の一階へ移動させねばならないから大変。仕事とはいえ臥床一辺倒の私には同情の光景だが、片や見る側に立つ者の眼には哀れや哀れの私の常臥の日夜か。つくづくと老いの強制自覚、いや自覚強要の問答といおうか。
 何もかも面倒臭くて止めとこ、に傾きがちなのを明恵上人のお言葉「うちさましうちさまし」、辛うじてこのペンを執っている始末。書きたくてたまらない癖に書き始めるまでのためらいの分秒が長く感じられる。老衰いちじるしい八十三媼の自覚ながら、自覚以上の外観であろう。
 昨暁の夢に松永勝巳先生の登場。勝巳先生逝きまして何年? 台湾では若手の校長、引き揚げ後は毎年招かれて渡台、もうむつかしいと言ってきた、と仰言ったのはお幾つだったか。あっけらかんとしたロマン派、音楽好きで見事な範唱に、殊にも下手な私は羞恥の極みを味わわねばならなかった。
 私の母方の縁戚の婿養子だった。次女の春子ちゃんが生まれたのは私が先生と同じ学校に赴任して間もないころ。職員朝礼のとき、黒板にさらさらと、
   春子生まれぬ
   春の息吹に
 と板書されてのご披露。そんな先生を「さすが大陸育ち」と一同は賛嘆しながらも、こんなやり取り。
「先生に赤ちゃんの生まるる? 嘘んごたる」
「僕も男ですよ」
 何気なく迸り出た先生の憤然とした語調にびっくりした思い出もなつかしい。
 養子先の家は、田舎では初めて見る建築様式だった。病院が建つか学校が建つか、と村人たちの噂でもちきりだった瀟洒な二階屋で、先生にはその家のたたずまいも、姓が馬場から松永にかわったことも慶びであった。
 新築の家は従兄の国太郎が大陸の警察官を退いて建てたものである。広い敷地に南面する庭は外からは覗きにくく内からは楽々の外観。茶の間には『キング』や『富士』といった大衆誌がおかれ、私はそれを目当てに一人娘の政枝さんのところに遊びに行ってしばしばお昼を招ばれた。そう、あの家には「堅か家」にない開放感が息づいていた。
 その瀟洒な家が平屋に小ぢんまりと建て替わるなど誰が想像しただろうか。
 国太郎さん亡く、慶んで婿養子となられた勝巳先生亡く、政枝さんの境遇を羨んだ妙子先生亡く……茫々の過去よ。
  ・ながらへて何を見よとか年重ね
   八十三媼わが世茫々
  ・有為の奥山けふ越えて浅き夢見し
   とつづく明日か
 歓びも悲しみも幾歳月……豪勢な白い編籠のチューリップたちは、今日の誕生会の通知か、受領の証か。私は大渕順子ちゃん頂きのシルクのストールを志とした。



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