2007年(平成19年)3月1号

No.352

銀座一丁目新聞

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安全地帯(171)

信濃 太郎

先輩の生き方見習うべし

 陸士4期先輩に野副直行さんがいる。戦後自衛隊に入られた。退官後民間会社でも業績をあげられるが、自衛隊時代に絞って紹介したい。昭和29年発足した自衛隊に一等陸尉で入隊された。時に33歳であった。部下を指導する方法は卓越しておられる。射撃、剣術、ラグビー、持久走などの競技会で勝つ秘訣は「営内生活すべて其の競技のために生活することだ」という。たとえば射撃競技の場合1、犯しやすい欠点をメモしこれを読みながら射撃すること2、射撃でも握力の鍛錬がものを言う。生活の中で握力を鍛える3、消化のよいものを射撃する2時間前に食べる4、トイレにも標的を貼り付ける。
 第16普通科連隊長(大村・昭和43年〜45年)の時は連隊長自ら拳銃の選手と出場した。駐屯地司令も兼務しているので練習する暇がない。それでも射場ヘ1ヵ月ほど通った。自分の陥りやすい射撃欠点癖を紙に書いて射撃直前にこれを読んで試合に臨んだ。結果は師団20名中3位であった。他の小銃、機関銃の成績とあわせて大村連隊が総合優勝をした。
 ラグビーでは師団と方面でそれぞれ優勝、西部方面チーム訓練担当連隊として上京して秩父宮ラグビー場で優勝決定戦を中部チーム(関西近畿方面隊)と戦うことになった。中部チームは毎年連覇のプロもどきのチームである。ところが西部方面チームが勝った。「生活即ラグビー」が勝利したのであった。
 アメリカ・ジョージア州フォートベニングにある陸軍歩兵学校に留学中での出来事である(昭和33年から34年)。10名の学生が「背中に人間を担いで競争する運動」に参加した。距離200メートル。朝鮮戦争で武勲耀くアブード大尉が野副少佐を担いで先頭をきって走り、ゴール寸前でよろめてころんでしまった。その瞬間、野副少佐は直ぐ起き上がりアブード大尉を担ぎゴールへ飛び込んだ。スタンドで見学していた同期の将校たちは一斉に立ち上がり、二人を祝福した。そのフェアプレーに感動したのである。留学のある時、東京が台風に襲われた。米軍将校学生は野副少佐に見舞いの金一封を贈った。「これで東京の家族の安否を確かめるよう電話し、その結果を知らせて欲しい。余ったお金は慰問見舞いに使って欲しい」。野副少佐の目から涙がぽとりと落ちた。
 この人のよさはその着眼点である。駐屯地司令では「会計検査司令」と陰口を叩かれるぐらい国費のムダをなくすのに努力された。例えば水道の蛇口の派キングの取り替え。パッキングが悪ると水がムダに流れてゆく。石炭の正しい保管。保管が悪ると砂が混じって石炭が無駄になってゆく。凄い人だと思う。
 昭和50年機甲師団第7師団副師団長、陸将補で定年退官された。退官後「実員指揮訓練シリーズ」5冊「訓練管理上、中、下」3冊「ゲリラ対ゲリラ戦」2冊「戦機」2冊を自衛隊へに遺言として8年がかりで出版された。平成17年10月陸士60期製の全国大会の際.野副さんは元区隊隊長(60期の24中隊9区隊長)として招かれた。その時音楽隊とともに招待されていた東方總監部公報室長須田俊彦一佐(防大24期)が『「実員指揮訓練五則」は私の座右の銘でした』と挨拶したという。野副さんのこみ上げてくる喜びがこちらにも伝わってくる。59期生歩兵科の私は野副さんのいた中隊の隣の23中隊1区隊にいた。昭和19年3月から卒業の10月までともに振武台で同じ釜の飯をいただいたことになる。それだけ親近感がわき、優秀な先輩を持ったことを誇りに思う。

(本稿は同期生、柴田繁君から贈られた野副さんの著書「我が絵、我が書我が旅の詩」からまとめたものである)

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