2007年(平成19年)3月1号

No.352

銀座一丁目新聞

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花ある風景(267)

並木 徹

「戦争と俳句」に思う

  俳人、宇多喜代子さんの著書「ひとたばの手紙から」ー戦火を見つめた俳人たち―(角川文庫)には「太平洋戦争と俳句」を考えることは、私の年来の懸案であったとある。私もこのテーマには興味がある。宇多さんは敗戦時9歳であった。しかも軍人一家で、祖父は陸軍士官学校出身、宇多さんと弟と一緒に育てられた叔父は陸軍幼年学校に入る。祖母の実家、母の実家も陸士、海兵との係わり合いを持つ人が多く、その周りには職業軍人で占められていたという。
俳句は作者の心の発露である。その人柄が出る。戦争・戦場がはかせる言葉がある。時代の流れとは無縁ではない。昭和17年の「俳句研究」1月号には「大東亞戦争と俳句作家の決意」という特集がある。宇多さんは富安風生と飯田蛇笏の一文を紹介しながら風生の「国起ちし日の一枚を剥ぐ古暦」ほか7人の俳人の句を並べる。昭和16年12月8日対米戦宣布告の日、私は16歳、気持ちが高揚したのを覚えている。2年後に陸軍士官学校に入校する。敗戦の詔勅を西冨士の演習場で聞いた。卒業寸前であった。長谷川素逝の「冬の日をあふぎてなにかさけびたく」の気持ちはよくわかる。萩原麦草の「大詔を拝す女は乳充てる」竹下しづの女の「国を擧げてたたかへり吾れ麦を蒔く」に共感する。
 中村草田男の「勇気こそ血の塩なれや梅真白」は出陣の学徒へのもの。山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」は特攻隊員として出て行った若人への句である。13期海軍予備学生で飛行機のりとなった友人、高橋久勝君の句「惜春やもう一度会いたき戦友ばかり」。さらに「きけわだつみのこえ」(岩波文庫)から拾う。「菜の花や今日は万里の泣き別れ」(中尾武徳・20年5月特攻死・22歳)「柿の皮さらさら剥けて母恋し」「藤棚の葉のみ繁りし日々なりき」(竹田喜義・20年4月戦死・22歳)「月も日も流しやりけり春の潮」(和田稔・20年7月回天訓練中戦死・23歳)「冷え冷えと腕腕を慕い相い」(稲垣光夫・22年6月病死・23歳)
 虚子は「俳句は時代の影響を受けることの最も少ない文学だ」という。私はそうだと思わない。人間の心は、時代から、両親を含めた周りの人から、学んだ小学校の教育からそれぞれ影響を受ける。周囲の風景も戦時色に染まってゆく。感受性の強い俳人が何かを感じるはずである。徳川無声は「除夜の鐘鳴らず地球は廻りをり」(昭和16年12月31日・「無声戦争日記」)と歌っており、戦時中、除夜の鐘を鳴らすことを禁じられていることを示す。「高浜虚子全俳句集」(上・毎日新聞)で虚子の句を見る。「濡れてゆく女や僧や春の雨」(昭17・3月17日銀座探勝会)「顔そむけ出づる内儀や溝浚」(同年)「玉蜀黍を二人互ひに土産かな」(「ホトトギス」昭18・8)「夜学の師少なき生徒一眺め」(「ホトトギス」昭18・9月)「呉れたるは新酒にあらず酒の粕」(「ホトトギス」昭18・10)「盂蘭盆会其勲を忘れじな」(毎日新聞昭和20・8・25)。そこには戦争が色濃く出ているではないか。宇多さんは虚子の「大寒の埃の如く人死ぬる」をあげて「大寒の埃のような死こそ戦争そのものとも読めると指摘する。虚子には「辛辣の質にて好む唐辛子」の句があるように其の時々で文章に、俳句に、唐辛子を匙加減して発言しているのかもしれない。
 日中戦争に出征した長谷川素逝に「弟を還せ天皇を月に呪ふ」がある。大戦末期にある俳人宅に一泊した際にしたためた未公開の句である。公開しておれば忽ち「治安維持法」違反で捕まったであろう。旧態を脱して新たな俳句を摸索しようと「新興俳句」が昭和10年に登場した。この新興俳句の俳人達が昭和15年から16年にかけて28人の検挙者を出す。捕まった波止影夫は「この海に死ねと海流とどまらず」の句を残す。獄中生活を送った秋元不死男には「ひと日うれし獄に尊き蝶おり来」がある。宇多さんは「かえって辛くなる」と感想を漏らす。
 戦中の新人として金子兜太ら5人の句を列記する。「魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ」(金子兜太)「穀象を喝す英霊二千かな」(斎藤玄)。火野葦平の「麦と兵隊」を俳句で書けばどうなるかと3人の俳人が「俳句研究」(昭和13年9月号)に俳句を寄せる。「敵前の月に熟睡支那の蛍」(日野草城)「友に似て黒き眸の捕虜胸厚き」(東京三・のちの秋元不死男)「戦場へ一本の列が生きて動く」(渡辺白泉)。
 医者の横山白虹が傷兵を詠む。「傷兵の冬日の犬がかきみだす」。女性たちの戦争句も紹介される。「炎天や一片の紙人間の上に」(すずのみぐさ)「亡き兵の妻の名負ふも雁の頃」(馬場移公子)「農夫の罵詈に黙しとほすや冬の虹」(加藤知世子)大阪で空襲で被災した桂信子に「春暁の焼来る我家をしかと見き」がある。「広島に林檎見しより息安支」(西東三鬼)「大露に腹割つ切りし男かな」(富澤赤黄男)。敗戦に詠う。「秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ」(高浜虚子)「いくたびか哭きて炎天さめゆけり」(山口誓子)「敗戦を恨みよろこび十三夜」(三橋敏雄)。
 桑原武夫は戦後まもなく「俳句第二藝術論」を雑誌「世界」に発表した。宇多さんは「文学報国会ができたとき、俳句部会のみ異常に入会申込みが多く、本部はこの部会に限って入会を協力に制限したことを私は思い出す」と桑原論文の一部を紹介する。大勢に順応すのは日本人の国民性。情けないが、これからはもう少し自己を確立したい。ともかく、人の肺腑をえぐるような短詩を作りたいと思うや切なるものがある。

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