2007年(平成19年)2月20号

No.351

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花ある風景(266)

並木 徹

雲は蓁嶺に横たわって家何くに在る

  俳句に嗜んでから漢詩に惹かれるようになった。嵐雪の「はぜつるや水村山郭酒旗風」を詠んでますますその感を強くした。この句は杜牧の詩「千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風 南朝四百八十寺 多少楼台烟雨中」を借用したものである。見事な本歌取りの句である。なかなかこのような句が作れない。何れ一歩でも二歩でも近付きたい。
 思いもかけずにこんなエピソードも知った。
 一人の武将が主君に呼ばれて茶室に入った。床に一軸があった。
 「一封 朝に奏す 九重の天
 夕べに潮州に貶せらる 路八千
 聖明の為に弊事を除かんと欲っす
 肯えて衰朽を将って残年を惜しまんや
 雲は蓁嶺に横たわって家何くに在る
 雪は藍関を擁して馬前まず
 知んぬ汝が遠く来たる 応に意有るべし
 好し 吾が骨を瘴江の辺に収めよ」
 武将はその詩を高らかに詠んで聞かれるがままに作者韓愈が左遷された由来を語った。韓愈が、憲宗皇帝の仏骨を迎えたのに反対して「仏骨を論ずる表」を奉ったため、皇帝の激怒を買い刑部侍郎から潮州(広東州潮州市)の刺史(州の長官)へ左遷された。817年1月14日、雪の中を出発、17日藍田関についた。ここを過ぎれば辺地である。ここまで見送りについてきた次兄韓介の孫、韓湘に示した詩である。時に韓愈、52歳であった。突然主君が茶室に姿を見せた。「貴公を武勇一辺倒の男と見ていた。今文学の士とわかった。許せ」といった。主君は織田信長で、その武勇を恐れて刺そうとした武将は稲葉伊予守一徹であった。漢詩の素養ゆえに一徹は命を救われた。
父、天武天皇の死の直後謀反を起して自死した大津王子は和歌と漢詩の辞世を残す(686年10月3日)。「ももつたふ盤余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集巻・416)。「金鳥(太陽)西舎に臨(て)らひ/鼓声短命を催す/泉路(死出の道)賓主なし/此の夕家を離りて向かふ」時に24歳、妃の山辺皇女も後を追った(北山茂夫著「万葉群像」岩波新書)。
 俳句、短歌、漢詩の世界は広い。知れば知るほど面白い。おかげで同好の士が増えた。前回、喜び勇んでNHKの介護百人一首に選ばれた所司慎吉君の歌を紹介した(2月1日号「花ある風景」)。わたしのミスで下の7・7を飛ばしてしまった。改めて入選歌を紹介する。「杖ついて恥ずかしさこらえ散歩デビュー脳梗塞の意地の見せどこ」。ひたすらご容赦を請う。

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