2006年(平成18年)8月20日号

No.333

銀座一丁目新聞

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花ある風景(247)

並木 徹

「映画「バルトの楽園」にみる軍人像」

  監督・出目昌伸、脚本・古田求の映画「バルトの楽園」をロードショウの最終日に見た(8月4日)。何故か涙が出た。主人公松江豊壽(松平健)の生き方に共感したからであろう。松江が1872年(明治5年)会津若松で会津藩士・久平(三船史郎)の長男として生まれたことにより彼の人となりが決まったといってよい。ドイツ捕虜に対する扱い、軍人としての行き方も明治 維新の際、賊軍の汚名をきせられ、僻地に追いやられた父と共にした境遇と無縁ではない。
 明治5年といえば、徴兵の詔が発布され、兵部省が陸軍省と海軍省に分かれ国軍が緒についたばかりであった。松江は軍人の道に進み、第5期生として陸軍士官学校に入学、明治27年少尉に任官した。同期生は213名。この期は大将4名を出すなど将官57名を数え、歴代最高の記録を作った。任官早々日清戦争に出征し、日露戦争には大尉で戦い、戦争末期には少佐に進級した。松江は1917年(大正6年)4月10日徳島に作られた坂東俘虜収容所所長に任命された。2ヶ月後に大佐に昇進する。ここに第1次世界大戦の際、青島で降伏、捕虜となったドイツ兵1028名が収容された。温情溢れる扱いに厳しかった久留米収容所からきた90名の捕虜達はびっくりする。脱走して自発的に帰ってきた捕虜に対しても不問に付し、逆にパン職人の腕を生かせとパン作りを任せる。収容所新聞「ディ・バラッケ(兵舎)」も発行される。この弱者への思いやりは戊辰戦争に敗れ、会津藩士が青森県下の斗南地区で父親と共に困窮の生活を送り、それぞれに生きるすべを覚えたことからきている。クルト・ハインリッヒ総督(ブルノー・ガンツ)が祖国ドイツの敗戦の報を聞いてピストル自殺を図り命を取り止めた際には己の生涯を語り「誇りを持って生きよ」と諭す。捕虜達と地元の人たちや子供たちとの交流によって器械体操、サッカーなどのスポーツが花開き、バターやチーズ、ソセージの製造技術が伝えられ、洋菓子職人も生まれたほどであった。圧巻はドイツ捕虜達が感謝を込めて開いた「交響曲第九番歓喜の歌」の演奏会。初演は1824年(文政7)5月7日、ウィーン・ケルントナートーア劇場。このときベートーベンが指揮を取ったが、完全に耳が聞こえなかった。陰にもう一人に指揮者がいて演奏が行われた。捕虜達による演奏会は1919年(大正8年)10月10日徳島の「新富座」で開かれる。ベートーベンが自由、平等、友愛という願いを込めた第九ほど坂東俘虜収容所の捕虜と徳島の住民にとってふさわしい曲はない。初演から95年にして東洋の国、日本で奏でられた第九とその合唱は新しい歓喜のページを開いた。映画ではヘルベルト・フォン・カラヤン指揮によるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音源を使った演奏シーンは観客を感動の渦に巻き込んだ。いまや第九は年末の風物詩となり、日本人の魂ともなった感がある。それも人間性豊な、ある一面では頑固で筋を通す「バルトの男」松江豊壽という軍人がいたからである。松江はその後大正9年4月、歩兵21連隊長となり、大正12年2月少将となり待命、5月予備役に編入された。 のちに会津若松の市長にもなる。日本陸軍にはこのような異彩を放った人物が少なくない。

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