2006年(平成18年)8月1日号

No.331

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追悼録(246)

「先輩、長井一美さんを偲ぶ」

  陸士の二期先輩でスポニチの新聞輸送をしていただいた長井運送の会長、長井一美さんがなくなった(7月19日・享年84歳)。本紙でもなくなった奥さんの静江さんの追悼記(2000年8月10日号)や長井さんの武勲(2004年8月20日号)を取り上げた。実は体の調子が悪いと同期生の安藤重善君から電話で知らせてきたのでなくなる前日の午後2時過ぎ入院先の虎の門病院へお見舞いにいった。翌日長男の純一さんから朝、長井さんがなくなったと知らせてきた。お見舞いの際、「もう暫くは大丈夫だろう」という感触であったから電話口で思わず絶句してしまった。「父の遺言で弔辞を述べてください」と頼まれた。承知した。東京・御成門近くの増上寺光摂殿で執り行われた7月23日の通夜、24日の告別式に参列した。良い先輩であった。ここに弔辞を述べさせていただく。

          弔辞

 ショックでした。病院へお見舞いに行きお話しした翌日の朝、あの世に旅立たれようとはあまりにも残酷です。人の世とはこのようなものでしょうか。そのお見舞いの日も船舶砲兵の指揮官として終戦時、日本海でアメリカの潜水艦を撃沈した話が出ました。輸送会社を立ち上げた話も8階建てのビルを建てた事も出ました。「おれは運のいい男だ」というつぶやきも聞かれました。57期の今井五十二さんにこの話をいたしますと「それは長井の最後の輝きだ」といっておられました。それにしても長井さん 早すぎますよ。それとも7年前の7月28日なくなった奥さんの静江さんが招きましたか。
 世が世であれば陸士59期生の私は終始、57期生の長井一美陸軍大尉殿の前では直立不動の姿勢を取らねばならなりません。無礼な男でした。お許し下さい。おつきあいは平成元年私がスポニチの社長になったときに始まります。18年も前のことです。スポニチの新聞輸送をしている長井運送の社長として挨拶に来られました。その物腰の柔らかいのに驚きました。その態度は最後まで変わりませんでした。長井さんとスポニチはご縁が深く、即売コースの充実に協力していただき、また東日本つり宿連合会の設立に発起人の一人になっていただいたこともあります。本当にお世話になりました。有り難うございました。よく遊びました。同期のプロ野球・日本ハム球団社長の持田三郎さんと私と同期の東日印刷社長奈良泰夫君の4人で57期対59期のゴルフの定期戦をやりました。成績は100戦して50勝50敗です。両者痛み分けです。その際も「うちの母ちゃんがね・・・」と奥さんの静江さんの話が出ました。海外でも国内でも旅行の際、二人でいつも手を組んで歩き同行の人たちを羨ましがらせたという。奥さんが亡くなって1年たった頃、長井さんを訪ねしたところ、部屋中に奥さんの写真が飾られていた。そこでこんな話を聞きました。奥さんが骨折で入院する前日、「お父さん、体を拭いて・・」というのでその通りにした。入院の朝。小さな椅子に腰掛けて長井さんの靴を磨いて病院に出かけたという。このような素晴らしい夫婦はまず居ない。長井さんの趣味は多彩でした。とくに日本刀や刀の鍔をあつめる高級な趣味がありました。そのうちの一振りが納棺されると聞きました。生前、奥さんはやさしく黙ってみておられたのでしょう。私には優しい胆玉お母さんに見えます。長井運送の今日の繁栄は長井さんとともに奥さんにも負うところが大きかったのだと今更のように感じます。この二人を見て成人された長男純一さん、二男の浩さんに、長井さんはなんの後顧の憂いはないと信じて旅立たれたと思います。
 ご遺族の嘆きはいかばかりかとお察しいたしますが、お父さんが示された志を継ぎそれを着実に実行し努力すれば会社はますます繁栄いたします。頑張ってほしいと切に願うものであります。
長井一美さん、奥さんともども天上から見守ってあげてください。安らかにお眠り下さい。

(柳 路夫)

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