2006年(平成18年)7月20日号

No.330

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茶説

パール博士の東京裁判無罪論に感あり

牧念人 悠々

 朝日新聞が戦後日本の歴史認識を問い直す年間企画「歴史と向き合う」第2部「戦争責任」として東京裁判で被告全員を無罪としたインドの判事、パール博士を取り上げる(7月12日)。15・16・17面に特集する。一面にその前触れ記事がある。その書き出は「東京裁判で全被告に無罪を主張したインド代表判事パルは、日本の戦争責任を否定する論者にとって、ほとんど神格された存在だ」とある。パール博士を「日本無罪論の源泉」だというところにこの特集の本意が透けてみる。日本の戦争責任というがこれがきわめて難しい。国際法上「自衛か」「侵攻(侵略)か」はその国に解釈が任されている。裁判で絞首刑になった東条英機大将は「大東亜戦争は自衛の戦争であった」と主張している。その「口述書」では「敗戦の責任は私にある」と明白に認めている。マッカーサー元帥ですら「日本の戦争は自衛戦争であった」と言明している。パール博士は東京裁判は国際法から見て野蛮な復讐劇であり、政治的茶番に過ぎないといったに過ぎない。日本に戦争責任がないとはいっていない。戦争責任は日本人が自身で裁くことである。敗戦時、いくたの軍人が自決したではないか。新聞社も戦争中の経営者に責任を求め退陣させ、それなりの戦争責任の取り方をした。パール博士が言わんとしたことは昨年6月、靖国神社境内に立てられたパール博士顕彰碑にも刻み込まれている一文にある。「時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには そのときこそ、正義の女神は、 その秤を平衡に保ちながら。過去の賞罰の多くに、 そのところを変えることを要求するだろう」(判決の一文)。何故この本文を紹介しないのか。その先見性を称えないのか。歴史認識は事実を積み重ねることによって明らかになる。パール博士が何をして何をなしたかを素直に事実で記述したらよい。パール博士は当時67歳であった。カルカッタ大学副学長の職を辞して1946年5月17日着任する。すでに5月3日に東京裁判が開廷していたから2週間遅れて裁判に参加する。その時、意外なことを聞かされる。裁判所側が判事団に指令して予め決めている「多数意見」と称する判決内容への同意を迫った。しかもそに事実を秘匿するため誓約書に署名まで強要されたという。もちろん博士は断乎と拒否した(「同台経済懇話会30年の歩み」より)。判決が下る昭和23年11月12日の2年半に博士が読破した資料は4万5千部、参考書籍は3千冊に及んだ。確かに当時博士は国際法の権威ではなかったが、「法の真理」の誠実なる追及者であった。東京裁判が国際法上認められない裁判であるのは世界の常識である。これを明確に博士は指摘した。礼賛するのではない。11人もいた裁判官の中でよくぞ「無罪」を主張してくれたと尊敬するのである。さらに東京裁判が行われたのは米軍が日本を占領していた時代であるという事実である。戦犯をA級、B級、C級と区別したのは占領軍である。昭和27年4月日本が独立した時、犬養健法務大臣が「東京裁判での戦犯は、国内法では戦犯ではない」という通達を出した。遺族援護法や恩給法が改正されて法務死として援護や恩給がが受けられるようになった。だから靖国神社には「戦犯」は祭られていない。東京裁判の被告は7人の「法務死」をふくめて14人の殉難者が祀られている。パール博士を取り上げるなら、東京裁判では「法律のないところに無理に『裁判所条例』という法律を作り、法の不遡及の原則まで無視して裁いた」という事実を指摘し、東京裁判史観の過ちを正すべきであろう。直接取材したパール博士の息子の話は博士の人柄がよくわかってよかった。歴史認識を問い直すなら現場を歩き、直接パール博士を知る人々を探し出して話を聞け。既に故人であればその文献を当たれ。そうでなければ過ちを犯すことになる。

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