2006年(平成18年)3月20日号

No.318

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安全地帯(138)

信濃 太郎

 「望月陸軍士官学校」をご存じですか

 長野県の望月高等学校(佐久市望月)から「望月陸軍士官学校」−僕たちの町にも戦争があった・世界平和を願って−の小冊子が送られてきた。この3月の卒業生が昭和20年6月から8月の終戦まで長期演習の名目で同地に疎開してきた陸士59期生についての調査報告を記載した「卒業記念文集」である。彼らにとってこの調査は「生きた教育」になったようである。
 卒業生が2年生の時、総合学習・沖縄修学旅行・平和学習の一環として「陸軍士官学校」を取り上げた。校長の吉田茂男さんの父親は当時陸士の学校本部の置かれた望月高女(望月高校の前身)に勤務していた。生徒たちは数年前まで北野憲造校長(中将・陸士22期)が使った机や陸士の焼き印のある椅子が今なお残されている(郷土資料館蔵)ことを知ってびっくりしたという。陸士の先輩や59期生、町の古老から聞き取り調査もした。この研究成果を2年の文化祭の時、発表したところ新聞に取り上げられたり手紙が寄せられたり反響を呼んだ。59期生の地上兵科(歩兵)である私も知らないことが書いてある。北野校長が大和屋呉服店(望月)、生徒隊長八野井宏大佐(陸士35期)が武重酒造(茂田井)、区隊長などが37軒の民家にお世話になったのを初めて知った。終戦直後、望月高女、中学、各国民学校で何日も書類焼かれ、地図だけで7万3千枚を数えた。軍需物資は川西10ケ村に分配され、軍馬は一頭300円ぐらいで北御牧地方に払い下げられた。8月19日に「檄文」が撒かれたことも記してある。「午後3時又新たななる事件突発せり。憂国の熱情たぎる皇陸海奮起戦の報なり。望月の陸士より発せられし物と思ふ」(両沢充子の日記)とある。この頃それぞれの演習地から地上兵科は神奈川県座間の士官学校に集結した。この文集に収められている59期生・歩兵 荻原 積君(予科25/3本科13中隊)の日記「8月19日月曜日 晴れ 涙と共に勅諭奉読 不忠ヲオハビス」とある。私たちの区隊では「徹底抗戦」か「承詔必謹」でアンケート調査をして提出した記憶がある。座間は騒然とした。隣接する厚木海軍航空隊で徹底抗戦ノビラを撒布した。
 高校生の生徒の「これからの日本はどうしたらいいですか」の質問に答えて54期の笹島孝一さんが「愛国心を持ってほしい。戦争で死んだ人のことを考えてほしい」と答えている。私の願いでもある。大東亜戦争(私は太平洋戦争という呼称を使わない)での総死者数310万人以上の犠牲の上に60年間も戦死者皆無という平和が築き上げられている。この事実をもっとかみしめなければいけないと思う。高校生が在学中に平和・戦争を考え地域の人々と交わりを持つのは教育的であると感心させられる。
 なお59期生が送った資料も収められている。藤野浩一君(31/2・船舶)高山統君(1/2・航戦闘)三浦章君(27/1・航通信)不破喜久雄君(6/3・山砲)牧内節男君(23/1・歩兵)梶川和男君(27/3・船舶)荻原積君((25/3・歩兵)らが協力した。

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