2006年(平成18年)3月1日号

No.316

銀座一丁目新聞

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茶説

涯なるくにをひねもすおもふ

牧念人 悠々

 今年は2・26事件が起きてから70年である。北一輝はこの事件を「若殿に兜とられて敗け戦」と読んだ。若殿は昭和天皇をさす。決起軍を逆賊とした陛下の決断が事件を流血を見ずに収拾させた。昭和11年2月26日。私は小学校 5年生でハルピンにいた。容易成らざる事が起きたと、なんとなくこわかった。「学校側には昼近く、この情報が飛び込んだ。(中略)とにかく、単調退屈に流れやすい学年末の空気を十分に騒がせるものであった。ただ学生たちは、衝撃・驚愕のあとは、事件の真相把握に遠い日本の空気を思うのみで焦慮はやがて教場の緊張に忘れらて行った」(ハルピン学院史より)。満州の最前線にいた先輩の後藤四郎さん(陸士41期)の元にはガリ版ずりの「決起趣意書」と一緒に北一輝や西田税の門を叩いた野中四郎大尉(陸士36期・決起将校のリーダーの一人・自決)の遺書が届く。遺書の最期には「昭和11年2月19日於週番士官室、故 野中大尉の法名、直心院明光義剣居士」と記されてあった。後藤さんが革新将校だというので新京の関東軍憲兵司令部の独房に一ヶ月間重謹慎の身となった。松本楼の小坂哲朗社長は4歳で、日比谷公園に大砲が据え付けられたのを覚えている。万一に備えて銀座の松本楼本店に避難したという。
 寺崎英成御用係日記「昭和天皇独白録」(文芸春秋)によると、決起部隊を叛軍と断じ、経済を心配し、鎮圧を命じられたという。「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり。 国体の精華を傷くる者なり」「速やかに暴徒を鎮圧せよ」「自殺するならば勝手になすべく、この如き者に勅使などもってのほかなり」「木戸日記」には「事件の経済界の与える影響、特に、海外為替が停止になったら困ると考えていた。しかし、比較的早く事件が片付き、さしたる影響もなかった。本当によかった」とある。昭和天皇の広い目配りに改めて感心させられると「独白録」は結んでいる。
 革新将校に大きな影響を与えた「日本改造法案大綱』は北一輝が36歳の時、大正8年8月上海で書き上げたもの。翌年帰国後大正15年ごろ「改造法案大綱」を西田税(陸士34期・広島幼年の恩賜・騎兵少尉の時病気で軍を辞める)に譲る。西田の手から革新将校、民間に流れ、いくつかのテロ、クー デターを激発させる。北は事件当日の午後1時から2時の間に青年将校を激励、給養や金を心配した事が盗聴されている。また調書では事件に参加した青年将校たちを「革命軍ではなく正義軍である」と表現する。
 西田と北一輝の間柄は親子の様であった。処刑は昭和12年8月19日、西田37歳 北55歳。西田夫人は北夫人とともに北家の応接間で香をたき時間をすごす。早朝、2千坪はある庭の松の木に、見たこともない鳥がいっぱい群がって異様な雰囲気であった(澤地久枝著妻たちの2・26事件」中公文庫)。北、西田ともに事件を計画せず参加もせずしかも事を起こすのに反対したにもかかわらず「事件の首魁」として処刑された。軍は北の著作「改造法案」の現れたその思想とその著作を熱心に普及させた西田の思想を抹殺したかったのか、それとも二人の存在そのものを消したかったのか、私には後者のように思える。二人とも「死刑」を運命と感じ従容ととして死についた。その年の7月12日銃殺された15名の同志を悼んで西田が歌を残す。「かの子らはあをぐくもの涯にゆきにけり 涯なるくにをひねもすおもふ」。青年の国を思う心はさまざま形で激発する。成否、功罪誰が論ずる事ができようか。それにしても舞い込んだ「ニセメール」を鵜呑みにして人の名誉を踏みにじり、辞職もせず恥じもしない代議士の存在に改めて日本に人材が少なくなってきたことを感ぜざるをえない。

 

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