2005年(平成17年)12月1日号

No.307

銀座一丁目新聞

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(24)

「続・野口雨情のこと」

−宮崎 徹−

  武蔵野市吉祥寺の井の頭公園の中に野口雨情さんの居宅の一部が篤志家の寄付で移築された。「童心居」という名称である。童心文学を標榜した雨情の性格を表したような清雅な住居で、井の頭の大きな池を囲む武蔵野の面影をわずかに残す木立に囲まれ、
 鳴いてさわいで 日の暮れごろは
    葦(よし)に行々子(よしきり)
    はたりゃせぬ            雨情(井の頭恩賜公園の野口雨情碑)
 大正の末に、東京市内から移り住んだ頃の此の辺は、葦が茂っていて、よしきりが鳴いて居たのだろう。其の頃東京府の同じ北多摩郡立川町の小学生だった私は、遠足でここに来たことがある。当時池に溺れた小学生を助けるために身を挺して殉職した訓導の碑の前で、先生から話を聞いたのを記憶している。むかしと比べればずっと整備された公園は、植物園でもあり、小動物園でもあって、今は家族連れに親しまれている。 明治四十二年旭川を最後に足掛け三年の北海道生活を終えた雨情は、郷里磯原に留まらず、東京で小さな出版社で働いて生活をしていたという。素封家の長男だったが、文学を志し、新体詩詩人として詩集も出したりしたが、文筆だけの生活では難しい時代で、雌伏の時期と云える。ただ大正七年雨情は中里つるさんと再婚し、家庭が整ってから、翌八年、東京でも強い人間関係が生まれ、「赤い鳥」「金の船」などの童謡文学誌の発刊が盛んになると共に、「十五夜お月さん」を始めとした作品で東京の子供達の心を把えた。それ迄の小学校唱歌とは違う子供の歌は、雨情、北原白秋、西条八十の発表した数々の作品で、子供に歌の喜びを教えた。
 私達が子供の頃母親から聞かされた歌や、少年倶楽部で読んだ歌など、みな此の人達の童謡であった。「野口雨情の歌カルタ」などを私たち子供が持って居て「留守のお家は雨戸がぴしゃり」等のカルタ言葉を今でも少しは覚えて居るのである。
 明治四十年代、旭川の人達は雨情については無関心だった。しかし昭和二年の夏、大雪山夏期大学が、当時の道内の有力紙北海タイムス社によって開かれた時、雨情は旭川で「民謡と大衆文芸」、層雲峡で「児童文学に対する考察」という講演をしている。旭川での講演は盛会で、タイムスに九回にわたって掲載された。童謡でも民謡でも、すでに日本中で愛唱された雨情である。層雲峡の地元上川町では、層雲峡小唄の詩作を依頼し、昭和十五年にも再訪を受けている。明治の雨情には余り関心を持たなかった旭川だが、昭和になって雨情を歓迎する旭川人を笑ってはいけない。
 啄木でも宮沢賢治でも、地方の才能は有名になるのは難しいのである。明治の雨情は世俗的には不遇だったが、大正時代には大きく開花し、昭和の雨情は大人も子供も知る大詩人になった。
 前稿にも記したが、研究者の見方では、雨情の童謡、歌謡は必ずしもモデルがあるわけではなく、雨情には「可憐なものの死」「孤児」についての天性的な深い思いやりが有って、それがこの世の罪のあらわれだという思想があったと云われている。明治の雨情には学生時代からそういう世の中に対する憤りがあり、富家の息子でありながら、社会主義的な感情があったらしい。大正の雨情の童謡にも「日傘」「人買船」などがあり、民謡でも河原の枯れすすきで知られる「船頭小唄」がある。
 今では都会で嫌われ者の烏にも、山には可愛い七つの子が居るとうたっている。今自殺者の多い平成の世に居たら、負け組としての時流に残された者たちを、雨情は何と唄っただろうか。
 久しぶりに井の頭の童心居の辺りを歩くと、自然公園の出口に小さな動物たちの獣舎・禽舎が有って、親子連れの見物人が多い。その中にアライグマの檻があってコンクリートのドーム状の巣と遊び場、小さな池があって、数十匹のクマたちが居る。こんな動物達にも縄張りがあって、巣の入口の傍で疎外された親子グマが四頭、中に入れないでうずくまっていたりする。時々巣の入口から出てくる大型のボスのアライグマは四頭をじろりと睨むが、父親グマは自分の家族を守るだけでじっとしているだけだ。ボスは自分の子分を連れて遊び廻るが、この四頭は壁にへばり付くだけである。
 今年と同様に石油が暴騰した昭和四十八年、北海道登別市の熊牧場では牧場のフロアの雪を溶かす温水ヒーティングが石油不足で作動不能になり、ドカ雪を踏み固めて羆が高い柵の壁を越えて脱走するおそれがでた。牧場側は処分を決め、そのうち成獣牡四十頭牝十五頭を射殺した。この熊達は縄張り争いに負けて牧舎に入れず、常に外で寝ていたグループだったそうで、数名によるライフル銃の射撃の中で、愛する牝を守るため腕を大きく拡げて多数の弾を浴びて死んだ牡熊も居たという。家族を守ろうとする本能は人間も獣も変わりが無いといわれるが、此の頃は人間の方がひどくはないだろうか。此の世の罪のあらわれそのものという雨情の言葉を思い出しながら、私は童心居を去った。

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