2005年(平成17年)10月1日号

No.301

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追悼録(216)

「亡き毎日新聞の先輩をしのぶ」

  毎日新聞の物故社員追悼会に参列した(9月21日・毎日ホール).新合祀者は152柱である。心から冥福をお祈りした。祭主祭文の中で斎藤栄一さんが「春はセンバツから」の名文句を作られたとあった。大阪社会部ではセンバツ野球の開会式を1面に書くのを誇りとし、デスクになる条件の一つでもあった。新任のデスクにセンバツを担当させた。私も昭和39年3月センバツ野球の担当デスクをやらせられた(前年の8月東京から大阪に転勤)。確かに「春はセンバツ」を実感した。この名文句が生まれたのは昭和9年3月の第11回選抜全国中等学校野球大会である。参加校20校。優勝したのは2対1で浪華商をやぶった東邦商である。このとき斎藤さんは25歳であった。大毎社会部100年史「記者たちの森」によると、昭和22年2月斎藤さんが社会部長になると、センバツが復活する。米軍に接収されていた甲子園球場も交渉して開会にこぎつけた。開会式で南木淑郎記者が「10万観客」と書いたところ斎藤社会部長に「これからの記事は本当の事を書かないといけない」といわれ「5万5千人」と訂正したとある。同書には写真部長を務めた林信夫さんが斎藤社会部長の横顔をしたためている。「よく本を読む男である。おそらくゴルフに行くときもポケットには横文字の本がひそんでいよう。ちょっと人を待ち合わせる喫茶店の片隅でも、電車の中でも、社会部の平部員から副部長、部長になってもその習性はかわらない」
 そういえば、私に「一週間に一冊の本を読め」と勧めたのは東亞部デスクの磯田勇さん(故人)であった。勉強している記者とそうでない記者の差は10年立てばはっきりするともいっていた。毎日新聞には立派な先輩たちがたくさんいる。
 翌日スポニチの物故社員追悼式に参列する。合祀者は6名。毎年追悼式を開くのは東京本社だけである。会社の歴史が若いスポニチが追悼式を始めたのは平成元年9月からである。物故社員の冥福を祈る。帰りがけに石井経夫さんから「戯れ歌日記」をいただいた。すでに毎日、朝日、東京、日経各歌壇に何回も入選を果たしている。8月15日にこんな句がある。「生きなんと/ひたはしりけり/六十年/戦後の余白/いまだ埋まらず」石井さんも戦後を懸命に生きているのだと思う。

(柳 路夫)

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