2005年(平成17年)9月1日号

No.298

銀座一丁目新聞

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追悼録(213)

「今日われ生きてあり」

  神坂次郎原作・田島栄脚色、十島英明演出の「今日われ生きてあり」を見る(8月21日・吉祥寺前進座劇場)。この作品は平成3年の夏、知覧を始め全国各地で上演された。戦後60年に当たる今年8月は東京、大阪、11月、12月に全国各地で公演される。私たちに「特攻」とは何かを問う。
 二幕十場。香坂司郎(志村智雄)のプロローグは薩摩半島の最南端にある開聞岳(標高922b)の説明から始まる。開聞岳上空から沖縄まで650キロ。海上2時間余の飛行。この山に別れを告げ、還らざる壮途についた特攻隊員462人。出撃機数431機。開聞岳は美しくも悲しい山である。万感の念いで祖国への決別の挙手の礼をこの山に向かって捧げた少年兵もいたという。
穴沢利夫少尉(武井茂・陸軍特別操縦見習士官一期生・中央大学)は昭和20年4月12日二十振武隊として出撃、特攻戦死する。遺書に書かれた読みたい本は「万葉集」「芭蕉句集」高村光太郎の「道程」三好達治の「一点鐘」であった。穴沢は伊藤智恵子(今村文美・本名伊達)と結婚式の日取りまで決まっていたが果たさなかった。智恵子は2月三重県亀山で利夫と面会したあと詠んだ歌。「わかれてもまたもあふべくおもほへば心充たされてわが恋かなし」
川野軍曹(益城宏)は6機の97戦とともに出撃したが油圧調整弁の故障で絶海の孤島、小宝島に不時着して生きながらえた。滑走路近くにあった集会所で知り合った秋本カヨ(知覧高女生・黒河内雅子)からマスコット人形をもらう。人形は特攻人形とよばれる裁ち残りの美しい端切れでつくった女の人形で、これをもっていると身替わりになって、隊員たちのかわりに人形が死んでくれるのだと女学生たちは信じていた。出撃前川野はカヨに首に巻いた純白のマフラーをカヨに形見代わりに与えた。そのカヨはB29爆撃機による知覧大空襲で死ぬ。
 「洋子ちゃんのオルゴール愛機に乗せて我は体当たり」と小松原軍曹は地頭所洋子ちゃんに書き残して昭和20年5月4日出撃特攻死する。ハモニカが上手であった。出撃前夜、洋子ちゃんにハモニカをプレゼントする。洋子ちゃんは上海にいる伯父さんからいただいたオルゴールを差し出す。曲は「乙女の祈り」。舞台に流れるハモニカの「野バラ」、オルゴールの「乙女の祈り」の調べが寂しく聞こえるのは不思議であった。第七次総攻撃で進発した朝鮮出身の光山少尉(武井茂)が鳥花うめ(ときわ食堂の女主人・いまむらいづみ・本名鳥浜とめ)にせがまれて歌う「アリランの歌」は心に響いた。
 千田孝正伍長(柳生啓介・少飛15期生)は昭和20年5月27日、72振武隊として6機とともに特攻出撃し戦死する。72振武隊の隊長は佐藤睦男中尉(陸士55期)で、中尉の人柄が温厚な人柄で、和気藹々の部隊であった。隊員たちも自分たちから『特攻朗らか部隊』と名付けたぐらい陽気で愉快な連中の集まりであった。歌のうまい千田は『鉄砲玉とは おいらのことよ 待ちに待ったてた 首途だ さらば 友よ笑って今夜の飯を おいらの分まで くってくれ』と身振り手振りで特攻唄を歌い世話してくれる村人たちを爆笑させた。
 フランスのジャーナリスト、ベルナール・ミローはその著『神風』の中で言う。「特攻に散華した若者たちの採った手段は、あまりにも恐ろしいものだった。それにしても、これら日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さという物について教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったこの使命を、とりだしてみせてくれたのである」(内藤一郎訳)原作者の神坂次郎さんは東京陸軍航空学校を志願、昭和18年4月入校、航空通信兵として先輩や同期生たちの戦死を目のまえで見、聞きしながら敗戦を小牧基地で迎えた。神坂さんは「わが命とひきかえに、愛する人々や故郷や祖国を守ろうとした彼らのひたむきな眼差しや清冽、真摯な表情がいまも眼の底にある」と書く。幕が下りたあともしばらくは席を立てなかった。

(柳 路夫)

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