2005年(平成17年)9月1日号

No.298

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
自省抄
北海道物語
お耳を拝借
山と私
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

北海道物語
(15)

「馬車鉄道と歌人」

−宮崎 徹−

  特色ある女流歌人として知られた斎藤史(ふみ)さんは、父君が旭川第七師団の将校だったので、小学校時代とその後女学校卒業後の2回を旭川に住まわれた。最初は新宿の花園小学校から旭川直行だから諸事珍しかったのだろうが、新開地で馬車鉄道が通っていたことと、皇后陛下の御内幣金で造られた軍人の子弟が通っていた北鎮小学校が印象的だったようだ。男女共学で一学年合わせて20人ほどで放課後も各官舎での交流があった。後に二・二六事件で知られる栗原中尉とは同級生だった。
 初期の馬車鉄道は、明治中期迄、単なる乗合馬車でなくレールの上の客車を馬が索引する鉄道馬車で、銀座や新橋を走っていた東京馬車鉄道という会社であった。明治42年生まれの史さんは旭川に来て初めてこの乗り物を見たようである。駅から師団まで約2キロの距離は人力車の外に、多人数を運ぶ馬車鉄道が師団通りを師団司令部まで、更に練兵場の周囲約4キロを一周するルートで、明治39年に開業した。恐らく師団と旭川市との間の打合せも有ったのだろう。民間の出資で会社を造り、レールは英国から取り寄せ、電車化で不要となった旧東京馬車鉄道の中古客車10台を購入してスタートしたのである。軍人の他に御用商人や面会人も利用し、史さんや栗原小学生も珍しそうに乗ったのだろう。
 而し北海道の交通機関は本州と異なり、長い冬と寒さという難関を解決して定時運行をするのは困難で、馬がレールの上と言っても客車を引っ張って石狩川の橋を渡るのも危険だったらしい。会社は新しい路線も考えて居たが、採算が予定通りに行かない中に、大正6年第七師団の主力が満州守備のため出発したので、乗客数が半減し、会社は赤字が累積した。資本を旭川市に委譲する話も不成功に終わり、結局翌7年に会社を解散した。折しも第一次世界大戦の末期でインフレによる採算悪化も一つの原因だが、そのためレールが高値で処分出来たとは皮肉な話である。
 尚、北海道の路面電車は、函館が最初で大正2年から電化されており、札幌は大正7年の「北海道大博覧会」の開催を期して電化された。旭川はその後、昭和2年、電気軌道がスタートしている。
 師団の存在が、当時の旭川にとって如何に影響があったかは、馬鉄の例でも判るが、文化の面でも可成りの貢献があったことは見逃せない。日露戦争の頃、ロンドンでロシア情勢の情報蒐集に功績のあった宇都宮太郎氏が第七師団長として旭川に赴任した際、ロンドンでのボーイスカウトの活動が青少年に好影響を与えると旭川の市長に話した。この二人が協力して振興したのが旭川のボーイスカウトの盛昌の礎石だったのもその一例である。

 斎藤史さんの父君斎藤瀏氏が師団参謀長として二度目の旭川勤務の際、史さんは女学校を卒業していて、また旭川人となった。漢学者の家に生まれた瀏氏は歌道にも優れ、多くの歌人とも交際があった。その縁で、大正15年師団参謀長瀏氏の官舎には若山牧水夫妻が訪れている。歌人の生活は豊かではなく、歌誌を出して維持する為には、揮毫旅行といって短冊や半折を売って歩くのである。瀏氏は市内の知人を廻って予約を取り、此の機会に講演会や宴会を開いて牧水に接する機会を造った。「旭川歌話会」が出来て、幾人もの歌人が旭川に生まれたのも此の時以来という。熊本の師団に転任した時にも「熊本歌話会」を開いている。天性文才が有ると共に人の世話をすることが好きな人だったのである。
 瀏氏は昭和5年現役の軍人から予備役となり、爾後東京に住んだ。歌人との往来がさかんになっていた。そして父の影響があった史さんも牧水にすすめられて歌詠みになった。ただ斎藤瀏家を訪れた人は歌人だけでなく、北鎮小学校以来の友達である同級生の栗原安秀や、下級生だった坂井直などの青年将校も集い、国の在り方を憂いていたのである。瀏氏はその聞き役であった。二・二六事件と言っても、もう知らない人も多いだろう。昭和4年アメリカ大恐慌に端を発した世界的不況は、冷害もあり日本では特に農村の大恐慌を招いた。娘が売られるような悲惨な状況だった。又都会では失業者が激増した。重臣・元老ではこれを救えないと若い軍人が蹶起したのである。昭和11年2月26日だった。
 その行動は、反乱軍として鎮圧され、将校達は銃殺刑となった。その中に栗原や坂井もいたのである。瀏氏はこの若い将校達に同情的な言動があったとして、反乱幇助罪で禁錮刑となり収監された。
 関係者の一人として、斎藤史さんの苦悩はどんなであったろうか。思うだに辛いことである。歌人としての史さんはその心を忍びながら幾つもの秀歌で表意している。戦争・空襲・ 疎開・郷里の長野での馴れぬ農村生活。ひたすら歌に打ち込み歳を重ねて行くうちに時は流れ世相も変わっていった。
 昭和55年、71歳になった史さんは想い出の多い旭川を訪れた。そして、まず当時の軍人が集会所としていた偕行社を訪れた。自分が写っている持参した写真を見ながら、当時を回想していたという。北鎮小学校は今も在るが、栗原・坂井氏の想い出は何時迄も処刑された20代の若さだったろう。
 史さんは平成になってから、芸術院会員に推され、平成9年には宮中御歌会始めに召人として参内し

 野の中に すがたゆたけき一樹あり
   風も月日も 枝に抱きて     と詠んだ。

 平成の天皇皇后両陛下の史さんを見る眼差しは暖かだったのではないだろうか。
 ただ私は史さんの歌としては、平成4年長野市に建てられた歌碑

  思ひ草 繁きが中の忘れ草
   いづれむかしと 呼ばれゆくべし

 が好きである。忘れ草の一つとして今回は馬鉄の話を書いたのである。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts.co.jp