2005年(平成17年)8月10日号

No.296

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茶説

同級生達の敗戦の記録

牧念人 悠々

 関東州・大連市にあった大連2中は敗戦でなくなった。最後は24回生である。昭和18年3月卒業の私たち17回生は227名いた。敗戦60年目の今年、手元のある記録から昭和20年8月15日前後の同級生たちの苦難の行動を綴る。

 Δ荒川州三君(今年7月17日、死去享年80歳・水戸在住)
8月14日から15日の朝にかけて正午に重大放送があるからもれなく聞くようにとの放送が繰り返しあり、14日朝、当時私が勤務していた満州農産公社大連支社へ出勤したら、いよいよ一億玉砕するまで頑張るようにとの陛下のお言葉だなという派と、日本もとうとうダメになったなという派に分かれていた。午後になると西崗子の満人街の方からざわざわとどよめきが聞こえ始め、その声が時間とともに大きくなり、やがて全員が日本の負けを覚悟した。15日朝、花園町の自宅を出ると関東州庁で書類を焼く煙が上がっていた。出勤してきた職員達は市役所でも憲兵隊でも種類を焼いていたと告げた。4偕の講堂で全職員集って玉音放送を聞いた。支社長が大きな体を震わせ、声を上げて泣いていたのが印象的であった。各自の席に戻ると皆茫然自失、ただ天井を眺め、窓外を眺め、誰も一言も発しなかった。(ソ連軍が大連に進駐したのは8月25日、荒川君の家ではソ連兵による被害は腕時計2ヶだけであった)

 17回生から戦死者を出していないが、昭和20年7月応召、シベリヤに抑留されて死んだものが3人いる。有ヶ谷芳君、磯口勝美君、板橋敏好君である。小川三郎君は長崎医専に在学中、8月9日、原爆死した。
 Δ若本俊吉(西宮在住)
終戦時は鞍山の満州製鉄株式会社耐火物研究室に動員中であった(新京工大在学中)。おかげで軍隊にも行かずシベリヤ抑留は免れました。耐火物研究室では戦況悪化のため、日本内地より物資の移入が止まり、電動機の重要部品デアル「カーボンブラッシ 」の社内製造が焦眉の急ということで日夜施策に没頭して、徹夜徹夜の連続でした。8月5日ごろだったと記憶しておりますが、北満より夥しい数の軍用トラックが軍人、軍族の家族を満載して、公園近くの広場で小休止をしており、初めは不思議に思っておりましたが、数日後ソ連軍の侵攻があり、 初めて納得がゆきました。国境地帯の開拓団や一般市民を置き去りにして軍人軍族の家族のみ非難させた事が分かり強い憤理を覚えました。8月18日に超満員の列車の二等車に窓から乗り十数時間かかって大連の我が家に帰り着きました。父の経営する工場の付属農園(1万5千坪)のその夜、警備にゆくように言われましたが、昼間は久し振りに友人に会い、夕方ゆくようにしておりましたが、状勢がかわりむしろ工場のほうが危ないので、工場に変更したら、その夜、農園が暴徒に襲撃され管理人が殺害され、中学生の息子さんが重傷を負い私はあぶないところで命拾いをしました。同級生の中には道を右にせんか左にせんか迷って右の道にして助かったという例が少なくない。運命と言うものはそういうものである。

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