2005年(平成17年)7月20日号

No.294

銀座一丁目新聞

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(11)

「男爵いも」

−宮崎 徹−

   今から五十年前、私が初めて旭川に住んだ時、食膳のしゃがいものおいしいのに驚いた。味噌汁や煮物もそうだが、特にストーブの上に置いて焼き上がったら十文字にナイフを入れて一片のバターをのせると、ほくほくとしたじゃがいもにあぶらが滲みていくのがこたえられない。これが男爵いもと云われて、今までの水っぽいじゃがいもとの違いが判る。未だ貨物の輸送車の手配が足りない時期なので、戦中戦後で配給された関東近辺のじゃがいもにはほくほくとして白い粉を吹くいもの味が無かった。
 何年かたち、車で富良野に走る途中、美瑛の丘の上に一面に咲くきれいな薄紫の花が見えた。同乗者に訊くとこれが男爵いもの花だと教えられた。緑の葉の間に薄紫紅色の花弁と黄色い花芯を見せて、大型の畑一面に咲いているのが北海道らしいすがすがしさである。
 じゃがいもの原産地は南米のアンデス山脈で、コロンブスほか新大陸の発見者がヨーロッパに持ち帰ったものの一つである。花が美しく珍しいので探検家はパトロンの王や貴族に観葉植物として献上した。しかし新大陸往復の船の水夫達は、花より団子でじゃがいもを食料とし、種子いもを畑に栽培して、ヨーロッパ全域、特に北方の英・仏・独の国内に拡がった。アイルランドは英国の植民地として貧しく、パンの代わりにじゃがいもを主食としたが、十八世紀の半ば、大陸からのいもの病気がアイルランドを襲ったとき、じゃがいもだけに頼っていたアイルランド人は大飢饉に苦しみ餓死者が続出して、以前から始まっていた北米への移住者は倍増した。じゃがいもの小さな種子いもだけを抱えて海を渡った貧しい移住者はアイリッシュと呼ばれて、貧しい白人の形容詞となったそうだが、今や米国の貴族のケネディ一家の祖先もその中に居るから、貧者だけでなく故郷に見切りを付けた大移動で、じゃがいもは同行したのである。
 江戸時代早くにはオランダ人が長崎奉行に観葉植物として献上したが、幕末に最上徳内が北千島から持ち帰り函館付近で僅か乍ら栽培したのがロシア経由の本道のじゃがいもだ。
 しかし明治になって開拓使が導入した品種はすべて北米のものである。特に「アーリーローズ」「スノーフレーク」は道民の初期の主食代用品となり、大正時代には各地で起こった澱粉製造業の原料の需要につながり(旭川では酒精会社が生まれた)、本道主作物の一つとなった。但し明治二十年代から全道的にじゃがいもの病虫害が発生して生産量は不安定となり、特に萎縮病という、いもの茎や葉が縮んで収穫が激減し次の代にまで感染するという病害には辟易していた。
 男爵いもで知られる川田竜吉男爵は土佐の人である。父君川田小一郎氏は岩崎弥太郎氏の親友で三菱財閥の創業に尽力した。そして第三代の日本銀行総裁となって日清戦争の戦費調達に貢献した功績で、民間人として珍しく男爵となり、一年後急逝した明治の財界人である。世襲により竜吉が男爵となり、七年間のヨーロッパ留学の経験を生かして三菱系の横浜ドックの社長となって居た。その頃函館の有力者達が出資して造った函館ドックが経営不振となり、東京財界に支援を求め、川田氏は推挙されて来函し、十年間を費やして会社の建て直しに成功した。
 北海道に来てからは、上磯町と七飯村に農場、牧場を購入し余暇にじゃがいも等の栽培も行って居たが、この病害騒ぎを知り、外国から取り寄せた農業専門書を読みあさって居ると「北米マサチューセッツ州のアイリッシュ・コブラー(アイルランドの靴屋)の農場でアーリーローズ種の突然変異により新種のじゃがいもが出来た。粒大にして味も良く、病虫害に不死身なほど強い」という記事を発見した。川田氏は早速アイリッシュ・コブラーの名の新種を取り寄せ、四年間の試作実験を重ね、病害に強いだけではなく、生育も早くて夏の短い北海道に適し、味も良いという品種の優秀性を実証した。伝え聞いて入手の希望者が増え、不作に苦しんだ道内のじゃがいも農業は安定の道を歩んだ。此のためアイリッシュ・コブラー種を男爵の 功をたたえて『男爵いも』と呼ぶようになり、昭和三年には道から優良限定品種として指定登録を受けた。
 川田氏は函館ドックの再建後も東京に帰らず、上磯の農場清香園でいもづくりに精を出した。又ヨーロッパ型農業を目指してトラクター・洋式牛舎・サイロ等の農業設備の導入につとめた。川田家が協力した三菱財閥の岩崎家 も小岩井農場ほか幾つかの農園で牧畜農業の西洋の技術を取り入れるのにつとめていた。それぞれが留学した英国のノブレス・オブリージェ(貴族は義務を持つ)の意味を知って居たのだろう。
 川田氏は昭和二十六年九十五才でなくなった。マッカーサーの占領下、財閥は解体し、華族制度もなくなっていた。公・侯・伯・子・男の意味を知る人も少い。それが民主化の特色だろうが、夏の光の下に美しく咲くじゃがいも畑を見ると、アイルランドの靴屋さんと川田男爵の果たした役割の大きさが判るのである。

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