2005年(平成17年)7月10日号

No.293

銀座一丁目新聞

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自省抄(35)

池上三重子

   6月7日(旧暦5月1日)火曜日

 新聞、日曜日の楽しみは本の紹介。ところが、これはと読みたいものに当たらないと、がっくりくる。今日午前は『徒然草』、本がでっかいので胸上のダンボール台が撓い、圧迫がきつくて緩衝地帯とする左の手の甲がくたびれて断念。午後は『釈迦』に替える。
 日中は三十一度。冷房にするがおちつきにくく、今やっと人心地。戸も窓もあけ放つ。風が出てきたのだ。自然はありがたいなあ。
 無常迅速。昨日は甥夫妻の来訪と倖せのプレゼント拝受。ニューメン、コロッケ、胡瓜のザク切り、大根卸しのご馳走に「この世をばわが世とぞ思う」道長に比す心象といえようか。小欲知足という言葉に当てはまる心の様であろうか、本当に庶民感情は芥川龍之介いう一本のパラソルにも程とおい大きな悦びなのだ。彼等夫妻のお陰で肉親をもつものの与えられる倖いを感謝せずにいられない。私が「倖せのプレゼント」と口走り、隆昭が笑いながら復唱したことも心に留まり嬉しい日となった。
 母よ!
 隆昭はお母さんの夢をみたそうですよ。私は食介されつつだったので、よく聴きとれなかったので、今度、聴き直してみましょう。
 骨折によるご入院により、礼子先生にお目文字がかなわなくなって一年半。月明けには妙子先生に対面可能と、弾みごころで迎えたあの風船ちゃんもぺしゃりんこ、気合抜けのペンであった。何たる体たらくよと微笑ならぬ微苦笑、イロイロアラ〜ナと片仮名語に心独り言の昨今だったけれど、大阪から永尾成ちゃんがひょっこり、久しぶりの武下洋子ちゃんの来室、そして甥夫妻の面会と「ありがとう」を繰り返さずにいられないお与えよ、拝受よ!
 ああ、それにしても妙子先生も遂に無常の軌道からお外れになることはできなかったのか。両下肢の異変の報に落胆し、それ以上にお歳をおもい、私の心は私の上に来るべき時がきた、来るべきものがきたとの感慨が深い。
 私以上に先生ご自身のとまどいはいかばかりであろう。健康だけが取り柄とおっしゃってた先生。書棚の一番下にしまい込んだものをお探しのときバタッと音立てて膝を折り曲げられるのが心配だったが、長期間の負担がそこにかかったのだろうか、いきなりの、不意の異変だったのであろうか。
 寂しくてならぬ。これがわたしの辿る命の一過程とは思うものの、妙子先生のそのお命の道程今が、来てはならぬものがきたように衝撃なのだ。
 先生は人一倍まわりに気兼ねなさるお人柄。どうぞどうぞ外出可能な自由の身体状態にもどられますよう、祈られてならぬ。
 私の右膝の傷は、カビの上にバイ菌もという若津医院の女医先生のご託宣でがっくりだが、医療のナース方お任せ以外何も無い。傷の回復が遅々として捗らないのは老体故か、バイ菌侵入を加えているものの今日の見かけによれば、勢力やや劣えの観。老いとはかくも劣化劣衰、しりぞくばかりの体調を覚悟しておくべきだ私よ。礼子先生の教え子、坂井満子ちゃんの言葉によれば、礼子先生をお見舞いして退室しようとすると、わんわん声上げて泣かれ名残りを惜しまれるとか。感情豊かに細やかな先生にも老いは防御しようもなく、本音、本然のすがたを真っすぐに、身をもって露にされるのだ。
 老いることは寂しい。
 老いることは情けない。
 しかし天然自然の生きとし生けるもののあるべきすがたであり、在る現在形の時々刻々なのだ。
 人間は群れを好むのが本性か、孤独をたのしむのが本然の相なのか。群れを好むのが本性で、孤独は贅として後日生じたのではなかろうか。
 イザナギ、イザナミノミコトの結ばれといい、アダムとイヴの出現などから、短絡人間の私は連想するのである。
 犀の角のように独りで歩けと二千五百年前、釈迦ゴータマ・ブッダは教え給うた。独立自尊だ。天上天下唯我独尊はまさに至上最高の名言であり、人間のあるべき相の真実であろう。独りから出て独りに戻る。いいお訓しではないか。味わい限りない泉源の至言ではないか。
 礼子先生の号泣は人間存在のあるがままのすがたであり根源の実相なのだ。分別くさげにこのような自省抄を書いている私の裸形は相似形なのだ。
 生……人生……
 時々刻々をその時を懸命に真剣に生きたような気持ちで顧るのだが、千差万別のあざなえる縄のような、塞翁が馬のような、ドン・キホーテのような様相ではなかったか。

 足立威宏先生の新聞の欄一席の御句に祝福ハガキを記す。お悦びのご夫妻のご様子が眼裏に湧きあがる。ご夫妻揃って教職定年まで。食糧自給自足以上の三反の田圃。おきついだろうが、お達者を祝福しよう。
 麦秋の今、隆昭夫妻のコロッケのポテトも自作という。畑がそれくらいは庭畑として残っているのであろうか。彼等一家の揃って三人の家族も、外孫ながらも史ちゃんもすくすくの発育、満二歳か。良かれ佳かれと祈りつつペンを擱く時刻よ。
 母よ!
 今日も夕刻六時までに半時間残すだけとなっています。
 過去も未来も茫々といえば茫々ながら迎えて送る時々刻々は、暑熱にうだりそうになりながら鈍々なりに哀愍われ! 生々世々、はつらつと生きているのですね。
 風があるといえばあり無いといえばない只今、体を剥きたくなるくらい熱の籠る背中と頭脳の感覚ですよ。背中灼熱!空気を欲しがるのですねえ!
 愚痴たぁらたぁら、涎みたいに心に湧く暑熱です、ごめんなさいね母上よ!
 今夜はさてナイター? ラジオを楽しめるか、娯楽番組があるかないか―
 ああ今日も倖せの賜りの命と時々刻々……ありがとうございました。
 お母さん、今夜もお待ちいたしますよ、ね。



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