2005年(平成17年)7月10日号

No.293

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北海道物語
(10)

「大雪山の風倒林」

−宮崎 徹−

  昭和二十九年九月二十六日、函館と青森とを結ぶ連絡船の洞爺丸が他の四隻の貨物船と共に、函館の沖で後に洞爺丸台風と呼ばれる台風十五号によって転覆沈没した。当時は世界海難史上第二の惨事と言われ、死者は合わせて千四百三十人、生存者二百二名だった。
 此の台風は道南だけでなく、突風によって大雪山系の森林にも大きな被害を与え、二千七百万立方米、北海道の森林の五%を風倒木としてなぎ倒した。
 昔から人手を加えなかった森林の奥も、台風が吹き通って巨木を倒し、森の光景はすっかり変わってしまった。
 当時の東京では、都心を別にすれば、土地の値段より家の値段の方がずっと高かった。空襲で焼けた住宅を建てる為に木材は貴重品であり、未だ外国からの輸入は出来ない時代だった。戦時中に山林は荒廃して人工林の面積は少ない。北海道でも国有林・道有林の毎年の払い下げによって、業者は伐採計画を立てていた。此の年も翌年分の割り当てが出来ていた処へ、一挙に数年分に匹敵する風倒木が出現したのである。北海道では大雪山に関わる旭川営林局・北見営林局の二局が、台風通路による対策地区となった。
 林野庁は、日本領だった樺太で、風倒木処理の期間が延びた為、鼠害、虫害にあって大きな被害を受けたという前例が伝えられていたので、此の倒林処分に熱心だった。此の時代は紙パルプ材の需要も大きく、地元の国策パルプ(現在は日本製紙)、王子製紙等は大量の木材を必要としていた。製材工場を持っている地元の木材業者は、冬山造材といって雪深い山中で大木を伐って、その重さを利用して雪の上を動かす方が、融雪後の運賃より遙かに安いので飯場を作って木を集める。工場を持たない伐採専門の業者は同業大手か、製紙会社に持ち込むのだった。そういう商談で夜の街は賑わい、昼は役所通いで忙しかった。台風の影響を受けた住民のマイナスも有ったが、地域全体の経済効果はかなり大きかったのである。
 大雪山連峰は、標高は高くとも2000米台であるが、高緯度だから森林限界が標高1400米程度と低い。此の限界の上を高山帯と云ってハイマツほか高山植物が生える。この高山帯が広くなだらかに展開して居るのが大雪山の特徴で、お花畑の広さを賞でられている。下の亜高山帯にはダケカンバ・ウラジロナナカマドがあり、その下にはトドマツ・エゾマツが群生して大雪山の森林地帯を作っているのだが、自然林だから混交林であり、広葉樹の楢(ナラ)・桂・シナノキ等も生えて居り、これ等は重厚な家具等にも使われるので利益の出る素材でもあった。旭川の主要産業の一つの木材業は旺盛な建築材の需要で製材品価格が上昇し、それ以上に国産丸太の価格が上昇、立木の価格は更に上がった。此の昭和三十年から四十五年頃迄が、木材会社の男時(オドキ)と懐古する人も多いのである。
 四十五年頃が転換期と云われている。安い外材がいくらでも入って来て、コスト面で対抗出来ず、年輪がつんでいるとか節がない等の優良材で一時対抗したが、それも限度があった。その頃から増えたマンションでは一戸あたりの使用木材が少ないのである。合板や集成材は木材の質を問題にしないので、並材、低質材でよい。南方の成長が非常に早いユーカリ造材などで、我が国の人工造材では太刀打ち出来なくなった。全国的にも、旭川でも、木材業者は衰退して来たのである。
 大雪山の風倒木の跡は現在はどうなって居るのだろう。此の時代を生きて来た人の話を伺うと、跡には殆んどトドマツを植えて居る。エゾマツより成長が早く、樹皮には独特の臭いのするヤニが有って此を野鼠が嫌うので造林に向いている。直径はエゾマツには及ばないが、既に成長して市場に出ているという。
 しかし、洞爺丸台風で甚大な被害を受けた大雪山一帯の風倒木を処理のために林道が開かれたのを契機に、石狩川源流部の奥深くにわけいった造材作業員によって高原温泉の開発が始まった。
 天井の大風から五十年、山麓の木材業界の盛衰を見下しながら、大雪連山は夏山の全景を表して聳え立っている。

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