2005年(平成17年)6月20日号

No.291

銀座一丁目新聞

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自省抄(33)

池上三重子

  5月19日(旧暦4月12日)木曜日 快晴

 只今九時二十分。昨夕食後、また失敗する。明るさが乏しくなる時刻に目をつかうのは厳禁した筈なのにあえて侵し、拭いてもふいてもの涙……えーいっままよ、のこのペンよ。 愚痴はダメ! くり返し説得しても心はついつい、たぁらたらたら涎みたいなつづき様。これが私、これぞ私! でもでも、ちょっと他愛ないではないか。ちゃんと人並みの童心、稚心を具足しているのだからなあ。

 昨日は三輪真純先生から宅急便拝受。
 お書きものの小冊子三冊と梅干二パック。開いてもらった順に、早速うえから順にむさぼるように読み始めて二冊めに浅碧色の封書。あけてもらうと、お手紙に包まれてお金子、ほとんど絶句の感動が身も心も浸す。
 数ならぬ身にうける心寄せの篤さには、実意の度かさなりには、魂のよごれがすっかり洗い濯がれるのであろう。だから涙腺ゆるむ作用を為すのであろう。ありがたい事よ。
 先日、天草の平井ヨソエさんよりの厚志の時もそう。見事な枇杷は天草超早! まるで貪るように、お施餓鬼にあつまる餓鬼どもはかくやと、自らの美味し美味しと息もつがぬ風情を想像したのだった。
 ありがとう平井さん。
 先ずは母にお供えしたのだが、凸ポンを頂いたときのお礼もハガキだけというのに、まこと、かたじけなしかたじけなし。
 生家の北側に枇杷があった。母の言う「ヒワ」。大きな美味しい実はビワだけれど、家のは酸っぱいからヒワなのだそうだ。私は桃も橘もグミも大人になってからさえ、こわごわものだった。風邪引き易く腹痛もまた、の私は腺病質だったのだろうか。桶の糠の中に保存してあるザボンや橘を食べたのは、勤め始めてからではなかったろうか。
 平井さんありがとう。美味しい美味しい大きな天草名産枇杷は、日勤の皆さんに、ナース方に初ちゃんにとご披露し、心さわやかだった。
 母よ、守っています。あなたのおっしゃっていた言葉「貰たもんな披露せよ、ち(と)、ととさん、かかさんの言いよらしゃった」の通りに。守る心は、同時に自発の心情でもあるのですよ。
 頂く……嬉し! 上げる……嬉し!

『縁と人生』(上)
『いつも笑顔で「ありがとう」』
『混迷の世を仏光に生きる』
 三輪先生お贈りの著書を私は昼食後の新聞のあと、また読まずにいられなかった。くり返しくり返し読むたびに身心にエネルギーが湧くのである。
 先生とのご縁の始まりは天草在の頃で、ここにもお訪ね下さった。美しい上品なお方ですね、と先生をお見かけした人たちはかならずや口にする。先生は群馬県安中市安中在の天台宗東光院慈雲寺の和尚さま。無論、僧衣ではない。背広にネクタイの老紳士で、九十歳におなりになる。
 善は急げ、悔いを残すな、の心に導かれて先生にお電話し、お声が聞けてよかった、奥様のお声まで聞けて本当によかったと感謝したのは一週間ほど前のこと。糖尿病が宿痾の先生、九十歳も何のその、何年ぶりかの生のお声! おいのちのお声!
 先生は安中市の助役や教育長、中学校長などを経て、現在もあちこちで法話をし講師をつとめる現役。先生のお目は慈悲を語っている。相談ごとも枠を設けず、観音様のおこころで拝聴なさる。というと、すでにそこに枠があるではないかと訝りが生ずるが、文殊悟道の法のこえ! 宗教者のあるべきさまなのだ。微妙な不可思議の世界としか私には言えない。
 和顔悦色の語は、「にこにこ顔」ということらしい。笑顔はいい。昔々、私はにこにこ先生と言われていたらしい。私の顔は、下ぶくれといえば愛くるしいが、お多福なのだ。 めでたいお面だが世俗では、たとえば落語で長屋住まいのご亭主が夫婦喧嘩で怒鳴るときに発する罵声らしい。私は猫の写真を切りぬいて戸口に貼っているが、おかめひょっとこに替えたい気がするなあ。それに、思い出すのは、父の手伝いをするたびに必ずや父の気むつかしげな表情に笑いだし、咎める父に更に可笑しくなって笑う若い日の私の姿。でも、これは和顔悦色施とは言わないわ。
 三輪先生、有難うございます。
 三輪先生のようなお方が社会のあちこちで一隅を照らしていて下る、と私は信じる。線路にわざわざ自転車を放置したり、石を置いて脱線や転覆による大惨事をもくろむ愉快屋の変態がいるのは日本だけではない。地球の抹殺にひとしいあれこれの実践野郎の存在は憎くてたまらない。しかし、私はそれに異を唱えることに共鳴しても共感しても、不特定大多数にむかって声を出そうとしない。
 何故、と自らに問う。分じゃない、と答える。新聞の投書欄にハガキして、感謝、感動を伝えたくてたまらぬ折がしばしばある。が、衝動を抑える。祈りにとどめる。
 行動派でなく、慎重派でなく静観者でなく、臆病者、卑怯者という烙印を自ら捺す。
 神よ!
 私の神よ!
 あなたは唯ひたすら俯瞰し、仰瞰し、全円周から中軸から隈なく見つつ謄るだけの存在。あるいは全個々の軸芯から見えわたされている全能の超絶対者!
 人間にたとえるなら母!
 聡明で真っ正直で、それぞれをそれぞれの真価を公平に見透かし得る力倆をもちながら誇示する意志など、毛頭縁なきにんげんよ。
 母よ!
今日も恵み受けつつの時々刻々でした。明日もまた命あらば、私らしい私ですごさせて頂くことでしょう。夢見にお待ち申しつつ。



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