2005年(平成17年)6月1日号

No.289

銀座一丁目新聞

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自省抄(31)

池上三重子

    4月27日(旧暦3月19日)水曜日 快晴

 ああありがたやありがたやの午後四時だ。オリーヴ油療法の垢付病退治も今日午前の入浴で、前回でおわっていたことが判る。そのことが、かつて一世を風靡した守屋浩の「ありがたや節」を思い出させたのだった。
 週三回、月水金と欠けなく気泡浴するのだが、骨格の上にうすかわ一枚張るといえそうな体は「擦る」ということができず、石鹸を泡だてたタオルでサーっと撫でるだけだからオリーヴ油療法が必要となる。面倒になって中止する怠惰は禁物、週一回か十日に一回を守ることにしよう。

 坂井満子ちゃん来室。腰痛を案じていたが、血圧が高くて胸がむかついたり体がふらついたりの症状がつづいていた由。今日は弟ごの運転でご馳走のお届け拝受!
 満子ちゃんのご馳走は散らし寿司、五目煮、デザートはフルーツゼリー。おいしありがたしで散らし寿司とゼリーを只今、本田美紀士の介助でいただいたところだが、味自慢の腕のたしかさ、お寿司もガメ煮もおいしさ! おいしさ! 感動する味覚は例のとおりであった。高血圧に苦しんだという彼女のその血圧の上昇が、どうぞどうぞ彼女の身の自由を奪うことがないよう祈るばかりである。明日は早々に、手作りご馳走のお礼のハガキをしたためなくては。
 いつもの昼食は、お菜とフルーツのみが定食の私である。もしカレーかシチューかビーフンだったら頂く。
 今日はそうでなくてよかった。残り半分は六時すぎの定時に再びの賞味の予定。おもっても感謝しても足りないこの心象は、数ならぬ身と自覚せざるを得ない私への、この満子ちゃんの差入れではある。
 母に食べさせたくなるなあ。
 ちょっとの事でも歓ぶ母であった。
 思い出す一つ……婚家のはなれに私の看病に来ている母との昼食。その頃はまだ左手でまがりなりにも食事することが可能だった。お菜の量に食べきれないと見た私は、母に食べてと言った。母は「あたいに食べさしゅうでっじゃろ?」と訊ねた。
 母は私を思いやりもつ子、と受け取ってくれたのである。そうではなかった。食べきれないと思ったからの頼みである故、私は母の善意の解釈が恥ずかしかった。
 私はちっともいい娘ではなかった。自分で知るゆえに、母の善い方をとりたがる生来の素質に羞恥したのだ。
 ああ!
 本当にいい母であった。
 真っ正直で、嘘いつわりでごまかす事無縁の、聡明にんげん! そしてそして、その父善三の「ぬすど(盗人)がんど(強盗)せんな(せずに)、しらごの(嘘・虚言)言いさえせにゃあ、この世に暗っこつぁ無か」の家訓どおりの人生をつらぬいた女性、母親だったのである。
 あの目の色を偲えばいい。
 細い目で、みずから「茅葉で、かっ切ったような」と言っていた目、そして「ばあちゃんの目は、あいとるとの?」と孫隆昭の覗きこむ目でもあった。
 その目の光りは常に慈を湛えていた。
 門付けの多かった時代の母の姿は、その慈悲の行為の一つだった。貝殻・旭貝の黄色が大きな米甕に用意されて炊事の量秤を兼ねていたが、母が胸にすがる物乞いの人々に米を上げぬ事はなかった。
「ごめんなっせ」と言えば「上げませんよ」の謂。母はそれを口にした事はない。私も母の無言の訓をまもり通した。なつかしい思い出よ。母の積善のお陰、さらに祖父善三にさかのぼる私の秘かごころといえようか。
 母よ。あなたは一ぱい豊かな思い出という遺産をおいていってくださった……感謝です、深いふかい謝念すずろです。
 遭いがたきご縁でした。
 母よ!
 夢見にお待ちいたします。また先夜のように、姉と一緒にお願いしますね。



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