2005年(平成17年)6月1日号

No.289

銀座一丁目新聞

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北海道物語
(6)

「No.2旭川の悩み」

−宮崎 徹−

 道内の都市のトップは勿論札幌で人口百八十六万、二位の旭川三十六万人の五倍強である。
三位の函館二十九万人で他に二十万人以上の都市はない。道民人口の三分の一を占める札幌圏は、明治初年度から開拓の中心として発展し、戦後は特に一極集中の傾向を深めた。戦前は小樽は商都であり、水産は北洋漁業の基地の函館、軍都は旭川、畜産は帯広と一應の機能分担があったが、現在は政治・経済・文化のすべてが札幌に集中している。
 或る友人は、『北海道経済を野球にたとえると内野は全員札幌圏である。投手は国の各出先機関で北海道開発庁がエース格である。捕手は道庁で全道に眼を配って怠りない。此のバッテリーと協力して各層の経済界が内野を形成している。昔は原っぱで子供が野球をするとメンバーはこれだけだった。これに対して外野は密度のあるプレーは出来ないが腕っ節が強い。石炭・水産・林業等資源型の選手は一発あてると本州どころか更に海外にまで長打が飛ぶ。これが道北・道南・道東の特色であり、北海道の域際収支の黒字に貢献した。ところが近年は外人選手に押されたのか外野の力は衰えた。従って内野の重要性が目立ち北海道チームの成績は一にこれに関わる。』と言った。
 医療を含め第三次産業は街の人口に依存するので、旭川の三十六万は大事にする必要があるが、旭川人の不満は人口第二の都市が歴史の古い小樽や函館は別としても、富良野や網走に比べて全国での知名度が遙かに低いことである。交流人口の増加が、今後の課題なのに、旭川空港に降りる観光客が街を素通りするのは市長の失政だと、四年に一度の市長選挙の際には、青年客気の野党側から知名度不足を問題とされ、かつては市長候補を新聞広告で全国に公募する企画が出た。これだけはマイナスの知名度向上だと在京の出身者を嘆かせた。
 No.2の知名度不足の悲哀は副社長や副大臣ばかりではなく、都市の場合も同じだと思う。反対派に対し山梨県の県都は甲府市だが人口第二の都市は何処だと質問すると答えられない。福井県は?徳島県は?山口県は?と尋ねても正解者は少ない。松島や天橋立の所在は周知でもNo.2の都市は知られて居ない。外国も同じでロンドンの次、パリの次、・・・等知る人が少ないのは、人口の大なることがセールスポイントでは無いことが判る。
 旭川が函館を抜いて道内第二位に成ったのも、昭和四十年代に入って近隣の合併を進めてからのことで、今もそういう傾向は有るが、経済界の、たとえば銀行やメーカーが統合による量の増加が、質的な向上や競争力の強化を招来するという方向とは異なるようである。松島や由布院の観光価値は人口の多寡とは別であって、ナンバーワンではなくオンリーワンとは、流行歌の文句ではないが、ユニークな個性がこれからの都市の魅力である。特に国際的な交流の時代では、旭川は大雪山という大自然との連携を図った構想が必要だろう。
 明治十八年、初期の開拓使判官で当時は会計検査院長だった岩村通俊氏は、北海道視察の機会を得て、かねてから注目していた上川原野に向け野宿を重ねて六日余の後、ついに旭川の近文山上に立った。その時眼前に拡がる壮大な上川原野と遠望する大雪連峰に感嘆し「山河囲繞原野広大 實ニ天府ノ富アリ・・・」で始まる名文を現在の碑に記している。後に初代長官となる岩村氏は、東京に次いで北京(ほっきょう)を上川地方に置き離宮を建設して北の都とする計画を政府に建言し、薩摩出身の黒田清隆の札幌北京案と対立した。明治二十二年山縣総理に現在の神楽岡公園一帯を離宮予定地と承認されたが、結局札幌の猛反対で水泡に帰した。この事情は、近年の首都移転騒ぎを経験した都民にもよく理解出来よう。此の時期が旭川が中央の関心を呼んだ最初で最後の機会だった。今、市内の常磐公園に建つ土佐人岩村氏の銅像は明治の先人の気概を示すと共に、外野の立場を忘れて札幌圏のショートストップを志して、上手くいっていない旭川を叱っている様に見えるように思えたりする。

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