2004年(平成16年)12月1日号

No.271

銀座一丁目新聞

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追悼録(185)

同期生の死を悼む

  同期生の片山弘夫君(横浜市在住)が死んだ(11月12日)。兵科は同じ歩兵で、中隊も区隊も同じであった。昭和19年10月から敗戦の昭和20年8月まで行動をともにした。残念ながら戦後は一度も会っていない。片山君はこれまで開いた中隊会にも区隊会にも顔を出さなかった。昨年9月、東京で開かれた全国大会には出席したというが、テーブルが予科の中隊ごとに分かれたのと参加者700名と大勢であったため会えなかった。それでも同じ釜の飯を食い、激しい訓練に耐え、ともに「死を考えた」同期生の絆はしっかりと結ばれている。女房にはこの『同期生の絆』が理解しがたいらしい。「戦後一度も会っていない人ならゆく必要ないのではないの」とのたまう。16日の通夜には満州・新京(現長春)の同徳台で片山君と予科時代を過ごした同期生8人(軍官学校4期生)が参列。私は予科を振武台(埼玉県朝霞)で送リ、本科で一緒となった同期生の代表として出席した。菩提寺の導師の坊さんの話では「片山君は一日一日を正しく生きようと心掛けた人であった」という。最後に祭前で陸士の校歌の一番を津田幸治君の指揮で合唱した。夫人の恭子さんは「みなさまの歌が主人にとって何よりの餞になりました」と喜んでいた。
 同期生、岡本愛彦君も亡くなった(10月24日)。大連の中学校から昭和18年4月陸士へ10人が合格した。学校こそ違え同じ大連出身ということで岡本君(大連中学)の動静には注目していた。戦後慶応大学からNHKへ入り、その後TBSに移り、テレビドラマで才能を発揮、1958年「私は貝になりたい」1959年に「いろはにほへと」を演出、連続して芸術祭大賞を受賞した。岡本君とも戦後一度も会っていない。彼もまた同期生の会合には殆ど出席していない。航空士官学校の第一生徒隊時代の寝台戦友、服部友康君(航空戦闘)の話では岡本君(航空通信)はよく母親や妹へ手紙を出していた。だからあだ名は「ラブさん」であった。一度その手紙を見せてもらったが見事な文章であったそうだ。ドラマで活躍する片鱗があったという。私など陸士時代母親には一度ぐらいしか手紙を出していない。岡本君は愛情深い人柄であったのだろう。彼の葬儀は親族だけで済ませている。ともに享年79歳であった。

(柳 路夫)

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