2003年(平成15年)10月10日号

No.230

銀座一丁目新聞

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茶説

戊辰戦争の本質を見よ

牧念人 悠々

 同台経済懇話会のシンポジウム『戊辰戦争の本質と戦争の全貌』に参加した(9月29日・会津藩校日新館)。講師は会津史研究家、小桧山六郎さんと同、間島勲さんであった。今でも会津は薩摩、長州とは仲がきわめて悪い。会津では官軍を西軍と表現するのを始めて知った。「先の戦争」と言えば「大東亜戦争」ではなくて「会津戦争」を指すという。話を聞けば聞くほど戊辰戦争中でも会津戦争が理不尽な戦いであったと思う。
 会津の悲劇は藩主松平容保が幕府から京都守護職に命ぜられた(文久2年閏8月2日)ことから起きる。明治維新(1868年)を迎える7年前である。内憂外患、物情騒然のとき、守護職を引き受ければ会津藩が政局の渦中にまきこまれるのは明らかであった。家老達は藩主に諌止した。就任を促したのは福井藩主.松平春岳の一言であった。会津藩には藩祖保科正之(二代将軍徳川秀忠の四男)の15条の家訓があった。その第1条に「大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし」とある。つまり松平家は宗家徳川家と運命を共にせよということであった。容保公が引き受けた京都守護職の仕事は皇居の守護である。その任務から倒幕派との衝突は避たがかった。容保公は孝明天皇の絶対の信任を得た。文久3年1月2日に孝明天皇と拝謁する。天皇が武家に直接お会いになるのは極めて珍しいことであった。会津藩士は2回も御前で軍事演習を行っている。10月には天皇の宸翰と二首の御製を賜った。
 容保公にとって不幸な出来事は孝明天皇の死であった(慶応2年12月25日)。時に天皇36歳であった。表向きは疱瘡で病死であるが、天皇の主治医伊良子光順の日記によると「急性毒物中毒の病状である」とある。砒素による毒殺である。佐々木克著「戊辰戦争」―敗者の明治維新-(中公新書)では名前こそ明示していないが、暗殺の黒幕は岩倉具視と大久保利通としている。王政復古を目指して策謀をめぐらしている岩倉には容保公を信任し、公武合体を願っていた親幕派の頂点、孝明天皇はめざわりであった。
 徳川慶喜が大政奉還するのは慶応3年10月14日。王政復古はその年の12月9日。討幕派が鳥羽、伏見の戦いで勝利して戊辰戦争となる。仙台藩主伊達慶邦が太政官にあてた建白書を見ても薩長政府の朝敵征討政策が正当性を欠くのがよくわかる(前掲「戊辰戦争」)。恭順謝罪しているものに「死謝」の処分を決定して武力を使うのは薩長の「会津への怨念」としか考えられない。戊辰戦争は内戦である。国家老西郷頼母一族21人の自刃をはじめ多くの悲劇を生んでいる。倒れた会津の武士達の遺体を片付けることさへ許さなかった。中でも会津落城前後(明治元年9月22日)政府軍兵士の略奪・暴行は目に余るものがあった。同じ日本人同士が何故こんな事をと思わざるを得ない。会津藩士や農町民の妻女を捕らえて暴行し或は陣所・下宿に置いて妾にする者もあった。家財の略奪・分捕りも盛んで城下のいたるところに「薩州分捕り」や「長州分捕り」の表札が立ち、路上で略奪品の売却まで行われたという(「日本歴史12幕末.維新」(研秀出版)。今から135年前の話である。後世に「勝てば官軍」という嫌な言葉を残した。

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