2003年(平成15年)8月1日号

No.223

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
静かなる日々
お耳を拝借
GINZA点描
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

 

追悼録(138)

坂田さんの昭和20年8月

  毎日新聞の大先輩、坂田勝郎さんについて書く。昭和38年8月、東京社会部から大阪社会部の副部長になった。東西人事交流の第一号で、東京から大阪にデスクとしてゆくのは始めてであった。坂田さんは常務で大阪代表であった。立川熊之助社会部長に連れられて挨拶にいった。体躯堂々、温顔であった。社会部時代、教育記者として幾多の特種を取った人と聞かされた。坂田さんの謦咳に接したのは僅か大阪在任中の一年半であった。後で知ったのだが「原爆を免れた強運の持ち主」ということであった。人生にはこのようなことがままある。神様がその人を必要としているから生かされているのであると私は思っている。神様は前途有為の人材をみすみす死なせはしないのである。
昭和20年8月1日坂田さんに広島支局長から大阪本社地方部副部長へ転任の辞令が出た。会社からの指示で家族を奥さんの実家のある熊本県小国町へ疎開させるため4日に広島を離れた。原爆投下を知ったのは大阪へ戻る6日午前10時ごろであった。久留米駅で乗客から「今朝8時ごろ広島に新型爆弾が落とされて、広島は全滅したらしい」という話を聞いた。やっとの思いで広島に着いたのは8日の明け方であった。坂田さんは「自分史」にそのときの模様をつづっている。
 「プラットホーム(己斐駅)にたつと一瞬地獄の恐怖を感じた。プラットホームには皮のはげた丸裸の死体がずらりと並べてある。駅の屋根は無残に飛び散って崩れ近くの山からはいたるところ煙が立ち昇っている。聞くと死骸を焼いている煙だということであった。(中略) 支局跡には燃え残りの柱は一本もなかった。ただ一つ私の目に映ったのは、やけさびた一つの釜だった。この釜一つが残ったのかと思うと急に山口君(勝清記者・殉職))のことが気にかかった・・・(もう一人の支局記者、重富芳衛君は無事であった)」
 この「自分史」の次のようなエピソートも紹介されている。昭和20年5月、ドイツが無条件降伏したころ(5月8日)本田親男編集局次長(後に社長)と高橋信三地方部長(後に毎日放送社長)とともに陸軍の第二總軍司令部を表敬訪問したときのことである。若松只一参謀長(中将・陸士26期)と真田穣一郎参謀副長(少将・陸士31期)が出迎えた。懇談の席上、若松中将は真剣な顔をして「戦況は全くよくない。この際、毎日新聞か朝日新聞のどちらかが、早く戦争を終わらせるような意見を発表してくれないものかと思っている」と話した。本田さんは「毎日新聞はそんなことは出来ません」と答えたという。この話から坂田さんら3人は敗戦が近いこと感じたという。
 この頃私は陸士59期生の歩兵科の士官候補生で、神奈川県座間の本科で訓練に明け暮れしていた。5月8日は小雨の中、挺身奇襲の演習をしていた。5月9日は豪雨であったが戦訓に従い防御戦闘の演習を行った。あくまでも勝つための訓練であった。独逸の降伏はこの日の新聞で知った。
坂田さんは昭和40年11月、新聞からテレビの世界に転じられた。毎日放送の副社長、社長(昭和52年6月)会長(昭和55年6月)を歴任された。平成2年1月なくなられた。享年85歳であった。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp