2003年(平成15年)6月10日号

No.218

銀座一丁目新聞

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花ある風景(132)

頑張れ、北見恭子

並木 徹

 一人の気にかかる歌手がいる。北見恭子という。昭和52年5月1日からのつきあいでる。毎日新聞の牧太郎君(現、特別編集委員)が社会面のコラム「芸能界 ウラのウラのウラ」に歌手、北見恭子を「鈍行歌手」と名づけて登場させたからである。これまでに二回しか会っていない、舞台の上での歌は一度聞いただけである。CDは折りにふれて聞く。
 北見は山形県村山市の生まれで、子供のときから歌は上手かった。高校時代に民謡コンクールに何度となく優勝した。歌手への夢が捨てきれず、家人の反対を押し切って上京したのが昭和46年春。上京して6年、歌は一向に売れず、ドサ回りを続けるほかなかった。昭和51年に416人の新人歌手がデビューした。その大半があっというまに消えた。北見は頑張った。「どんな苦労を してもいい/こころに結んだ おんな帯 おんな帯・・・」(「春の夢」)「尻切れとんぼの 幸せを/汗水ながして 追いかける…」(「浪花夢あかり)
 作曲家、古賀政男のお声かがりで歌手デビューを果たした小林幸子でもドサ廻りを経験している。「おもいで酒」で脚光を浴びるのは15年後である。
 あれから30年。北見恭子の場合、変ったことといえば、5万の給料が30万円になり、家も6畳一間から2DKのマンションとなった。それなりに人気が出た。フアンもついた。6月3日東京・池袋・東京芸術劇場中ホールで「デビュー30周年コンサート」を開いた。
招待された牧太郎さんは感想を述べる。「驚いた。25年前聞いた歌声とまったく違う。音域が出て訴えるものが確実に伝わる。上手くなった。実に説説力のあふれた芸になっている。それに自信に満ちた美しさがある」(日本魁新聞「編集長ヘッドライン日記」6月3日より)
 北見恭子はたしかに歌はうまい。だがどこか物足りない。深みがないと私は感じていた。それが年とともに苦労が歌にじわじわと染み込み美しさと艶を付け加えたのであろう。牧太郎さんが太鼓判を押した。50を越て演歌歌手がNHKの紅白歌合戦に出るのも夢ではあるまい。出場したら世の中が明るく、元気になるだろう。期待する。

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