2002年(平成14年)8月10日号

No.188

銀座一丁目新聞

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横浜便り(33)

分須 朗子

−「Your Story」 3−

 カイコは、海岸線にあるダイニングレストランの2階にいる。バルコニーの向こうに、鎌倉の海が見える。夕暮れ時の波打ち際は儚げで、昼夜の境をさ迷っているようだった。
 カウンターの席に一人で、カイコは、アボガドとじゃこを手巻きにしたすしロールを口の中に放り込んだ。カイコの目にじわりと涙がにじんだ。
 南国風の衣装をまとった店の少年が、いつもよりワサビが効いてましたか、と聞いた。
 カイコは、天井のスピーカーを仰いで言った。
 「白昼夢を楽しめる歌が好きだわ。泣きそうになる」
 歌は、男の声で、夢の場所へ行こうよベイビー、君を連れて行くよベイビー・・・と言っている。
 少年は、こんな陽気な歌なのに涙が出るんですか、とカイコに聞いた。
 「こんな陽気な歌だから、夢の真ん中に連れて行ってくれるようで、何かを思い出しそうになるの」と、カイコは言った。
 何かって何ですか、と少年が聞いた。
 カイコは微笑むだけだった。少年の質問には答えられなかった。
 「この歌のタイトルは店の名前と同じなのね」と、カイコは言った。
 少年が、でもスペルが違うんですよ、と教えてくれた。
 店内に流れるビーチ・サウンドはひたすら賑やかだった。君といるとハッピーさベイビーベイビー・・・と、男たちがハーモニーを響かせて口説いている。
 少年が、人のつき合いに化学反応なんてあるんですかね、とカイコに聞いた。
 曲の歌詞のことだろう。歌は、僕たちの化学反応はパーフェクト、地球の引力がなくたって僕たちは・・・と、絆の強さを吹聴しているようだった。
 「地球のどこかで、2つのいん石がぶつかり合う瞬間があるのかもしれないわ」と、カイコは答えた。
 奇跡的な出会いのことですか、と少年は聞いた。
 「何かというのは、とてもとても大切に思う気持ちのことかもしれない」
 カイコは気づいたように、少年の初めの質問に答えた。
 「でも、化学反応は始めからパーフェクトではないわ。完成させるために、ありったけの力を駆使しないといけないわ」
 恋には努力が必要ってことですかと、少年は笑った。
 「恋?」カイコは、不思議そうにした。

 気づくと、夕日が店のフロアを包んでいた。陽射しが焼けるように赤い。店内に流れ出した歌は、郷愁を抱いていた。
 海の方を振り向くと、地平線に落ちていく太陽の光が大きくて、江の島が真っ赤に見えた。カイコの目にじわりと涙がにじんだ。
 店の少年が、まぶしいですかと、聞いた。
 「がらりと曲調を変えられると、心が揺れてしまう」カイコが言うと、少年が、夏の間はお客さんのリクエストが色々なんですよ、と教えてくれた。
 歌は、女の声で、ラブについて語っている。
 少年は、愛とプライドは比べられるものなんですかねと、曲の歌詞について、カイコに聞いた。カイコは、少年の質問には答えられなかった。ただ、
 「泣きそうになる」と、つぶやいた。
 少年は、切ない歌でも涙が出るんですか、とカイコに聞いた。
 「こんなに切ない歌だから、夢の果てに連れて来られたようで、何かを思い出しそうになるの」と、カイコは言った。
 少年は笑った。どうしたって思い出してばかりなんですねと言って、笑った。そういう愛について歌っているんですかねと、少年は気づいたように、天井のスピーカーを指した。
 「愛?」カイコは、不思議そうにした。

 少年が、聴きたい曲はありますかと、カイコにリクエストを促した。恋の歌にしてくださいね、 大切に思う歌はないですよ、と少年がカイコをからかった。
大切な気持ちも全部まとめてラブソングと言うんですから、と少年は笑った。
 カイコは、新しく運ばれたピッツァを口に運ぶ。香ばしい生地の上にたっぷり盛られたしらすはこの日も豊満だ。少年はいつでも、すぐそこの浜で揚げられたばかりだ、と自慢する。
 「聴きたい曲は・・・」カイコはじっと考え込んでいる。「ちょっと待って」
慌てて言うと、少年は、いつまでも待ちますよ、と笑った。そんなにあせらなくてもまだ閉店しません、あせるのは似合わないです、恋もあせらずですよ、と大人びた顔をしてみせた。カイコの顔に、ニッコリと笑みが広がる。
 「どうもありがとう。そう言ってくれてありがとう」
 少年が、聴かせたい曲はありますかと、聞き直した。昔の歌ではなくて新しい曲がいいですよ、と少年が言う。
 「昔の歌は好きだわ」カイコが答えると、新しい思い出を増やすのはイヤですか、と少年が聞いた。カイコは、首を横に小さく振った。
 「毎日新しい気持ちでいられたら、どんな曲もどんどん形を変えて、味わい深いわ。昔の歌が新しい思い出の曲にもなるのよ」と、カイコは少年に教えた。
 「聴かせたい曲は・・・」しかしカイコは考えてから、「気持ちぜんぶを聴いてほしいのに、上手な言葉が浮かばない」と、少し淋しそうに笑う。
 しばらくして、少年が曲を選んだ。明るさと切なさの狭間を行ったり来たりしていた。カイコの目にじわりと涙がにじんだ。
 歌は、聴かせたい歌一つ知らない、と言っていた。でもこれだけは知ってる、と。ラララがアイ・ラブ・ユーを伝えてるってことだけ知ってるラララ・・・。
 「ラララ・・・」口ずさんだカイコは、「聴かせたい気持ちが浮かんだわ」と静かに言った。「・・・これからも、ありがとう」
 少年は、それはベタベタのラブソングでいける、と笑った。
 「ラブソング?」カイコは、不思議そうにした。
 少年が、愛までもうすぐですよ、と知たり顔をした。
 (つづく)



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