2002年(平成14年)5月10日号

No.179

銀座一丁目新聞

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追悼録(94)

 なくなった小渕恵三元首相は、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の句をよく口にしたという。経済評論家、飯塚昭男さんはその著書の中で「次から次へと押し寄せる難問に対して、総理大臣としての孤独を山頭火の俳句に託したのであろう」と書いている(「リーダーの研究」 PART2)。なるほどと思うが、この句は孤独のなかに、絶えず襲ってくる不安、死への恐れをも語っているように私は感じる。
 山頭火といえば、酒に溺れ、妻子を棄て、全国を放浪した俳人である。渡辺利夫著「種田山頭火の死生」(文春新書)によると、この句は大正15年初夏、45歳の作である。「振りほどこうとあがけばますます頑固にこびりついて離れない執着、そいつがこの緑だ。執着を振り払って少しでも安らかな心境を手にしようと必死に努めても、いな、努めれば努めるほど執着は深い。ひとつの緑の山を通り抜けるや、また別の深い緑の山に分け入ってしまう。うめくようにつぶやく」と解説する。そのつぶやきが俳句になった。山頭火は熊本県鹿本郡にある瑞泉寺の堂守を一年ほどしていたが、そこの小さな観音堂を棄て、九州山地の中央部の山をひたすら歩む放浪の旅に出る。
 山頭火の執着とは「喪失した過去への思い」「失われたものへの執着」である。11歳の時、母は古井戸に身を投じて自殺した。父の放蕩が原因であった。37歳の時、5歳年下の弟は縊死。母の死後、養子に出されたが、父の借金がもとで養家を義絶され、生活苦のはて行く先を天国に求めた。「またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく」の句はなんとも痛ましい。
 山頭火の孤独は元首相と比べようがない。孤独の質が違う。「俳句は生命の燃焼する瞬間を写し取ったものでなければならない。この生命の刹那的燃焼の芸術的表現こそ自由律句の魂だ」という山頭火の主張は、やりきれない絶望的な孤独から生まれたように思えてならない。
山頭火は昭和15年10月泥酔の果てに倒れ、死去する。享年59歳であった。

(柳 路夫)

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