2002年(平成14年)3月10日号

No.173

銀座一丁目新聞

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追悼録(88)

 大連2中の同級生、瀬川浩二君から、大連春日小学校同窓会の会報「春日」58号が送られてきた。見ると。陸士57期生の川辺晴夫さん(同15回、大連一中卒)の訃報がのっていた。たしか三島事件(昭和45年11月25日)の時、監禁された益田兼利東部方面総監を助けようと真っ先に総監室に飛び込み、斬られた自衛官として名前だけは記憶していた。大連育ちとは全く知らなかった。生前お会いして話す機会がなかったのは残念である。
 中学時代の同級生の弔辞によると「異変に気がついた君は、これを鎮圧するため内側から鍵のかかった分厚い木製のドアーに体当たりして破った瞬間、日本刀で背中を切られたその直後、振り向くや二の太刀を右腕で受け、両腕と手首、額の計四箇所を切られ重傷を負った」とある。
 起訴状によると、川辺二佐(当時)を斬ったのは三島由紀夫で、この際、7人の自衛官が負傷している。自衛官たちはこれ以上総監の救出を図れば、総監の命が危ないと判断して退去に至ったという。
 同級生たちは今もって川辺さんを連隊長とよんでいたそうだ。皆から親しまれていたのが良くわかる。事実、自衛隊では第一普通科連隊長を歴任している。
 川辺さんは傷がいえたあと、自衛隊を退官され、自動車会社に就職、黙々と精勤された。風流人だったようで、川柳が紹介してある。

   見渡せばはげとしらがの同期会
   前と後くすりとり出す古希の宴
   死に水を頼む女房に土産買ふ

 同級生の山田満枝さんが追悼記をよせている。靖国神社へ一緒に参拝したあと、「遊就館」に案内された。そこで、川辺さんは特攻機の前にじっと立っておられた。少し猫背の動かない後姿を、私はこの人は今でも軍人なのだと思ったと感想をのべる。無理もない、川辺さんは地上兵科だが、57期の航空は、特攻そのものであった。水上特攻を含めれば100名近い同期生が戦死している。
 川辺さんは平成13年8月17日、死去、享年78歳であった。

(柳 路夫)

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