2002年(平成14年)3月1日号

No.172

銀座一丁目新聞

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お耳を拝借(41)

-喉元過ぎれば・・・

芹澤 かずこ

 

 その日、朝からトイレの工事が始まって夕方までかかるという。只の自宅待機ならお茶菓子をつまみながらテレビでも見ていればいいが、トイレを他所で借りなければならないことを考えると、飲まず食わずで何時間か過ごさなくてはならず、なにか夢中になれるものをと、やりかけのフランス刺繍に取りかかった。時折、思い出したようにポツリポツリと少しずつ刺していたものを、つい朝から没頭して7時間近くせっせと針を動かしていたら、空腹とトイレは我慢できたものの、肩が凝って右手の指が開かぬほど痛くなった。
 普通なら少しぐらい肩が凝ったり手首が痛くなっても、伸びをしたり首をぐるぐる廻したりするくらいで治るのに、今回は一向に痛みが治まらず、高いところへ手を伸ばそうとしたり、フライパンなどの重いものが持てなくなった。お風呂に入ってマッサージを試み、タイガーバームを刷り込んで2日がかりでようやく治したが、これと全く同じ事を7,8年前にもやっていたことを思い出した。その頃はまだ劇団の事務局にいる時で、年末ぎりぎりになって2000枚近い年賀状を出すことになった。早く終ればそれだけ早く休めるというので、何人かで分担して終日せっせと宛名書きに精を出した。
 ところが翌日から右の手首が痛くなり、暮だというのに雑巾が絞れなくて往生した。こんな苦い経験をしているのに、痛みが消えてしまうと原因などすっかり忘れてしまい、同じ失敗を繰り返すことになる。自分のバカさ加減にほとほと呆れている。
 打ち身でない痛さはその個所をひたすら休めて血行をよくすれば完治も早いが、以前家の中で転んで、左の肩と胸をしたたか打った時には、マンガ風に言えば一瞬眼から星が幾つか飛んだ感じだったが、その時点では痛みは全くなかった。ちょうどバスタブに湯を張っている時だったので、お風呂に浸かってそのまま寝んだ。ところが、翌朝起き上がろうとしたが左の上半身が痛くて体を起こすことすら出来ない。少しでも動かそうとすると激痛が走る。でもそのままというわけにはいかないので、転げるようにしてベットを下りた。こんな時に病院にあるような、スイッチひとつで好みの角度になる電動ベットがあったら、どんなに楽だったことだろう。
 左半身が動かせないと着替えもままにならない。乳児や年配の男性の下着ならいざ知らず、いま女性の下着で前ボタンのものは殆どみかけない。持っている物もみな被るものばかり。片方の手で悪戦苦闘してなるべく前あきの洋服を着て外科へ出かけた。レントゲンの結果は打撲のみで骨折なし。年齢的に骨がもろくなっていると思ったのに骨密度はまだ十分だったらしい。痛み止めの注射をして、左手は動かさないように固定された。
 右手は使えるので字を書いたりパソコンを打ったりは可能なので休まず仕事に出たが、この通勤がまたひと苦労だった。いつもは左肩にバックをかけて右手でつり革につかまっているが、左肩には少しの重みもかけられないのでポシェットを右肩から斜めにかけて、左側は極力混雑から庇わなければならない。食事を作るのはなんとか右手でも出来るが、洗い物は片手ではうまくいかない。この時にも食器洗いが欲しいとつくづく思った。洗濯は洗濯機がしてくれるが、洗濯物の小じわは両手でポンポンと気持ちよく叩いて取るのに、片手ではどうしょうもない。そこで洗濯物をくるくると巻いて手の平で皺を伸ばしてみた。これがなかなかうまくいった。窮すれば通ず、とはこのことだろう。
 痛みがすっかり治まるまで左手はなるべく使わないように固定していたら、左の肘が伸ばせず、腕も上に挙がらなくなってしまった。いよいよリハビリ開始。病院のリハビリ室はマットが敷いてあり、いろいろな器具が壁際や天井に設置されていて、ランニングマシーンも幾台か備わっている。コーチがトレーナーの上下を着用しているので、さながら運動ジムの如く。先ずリハビリを始める前に、蒸気で暖めた分厚い布を左の肩に乗せて15分間待たされる。多分、血行をよくするためだろう。
 私の場合、左腕が胸の高さより挙がらないので、少しずつ腕を挙げる訓練から始めた。天井から下がっている二本のロープ(実際には輪に通してあるので一本)の先に電車のつり革のような取っ手がついていて、その取っ手を両手でシッカリ握って、交互に上げ下げをする。痛くない方の右を下に引くと必然的に痛いほうの左が上がるのだが、自分だとつい手加減をしてしまう。するとコーチが寄ってきて「もっと高く!」と容赦なし。そういえばあっちでもこっちでも「イタタタ・・・」と悲鳴が聞える。
 お次は壁に取り付けてある大きな車輪の取っ手を持って回転させるように言われる。ところが回転どころか始めは半周も出来ない。家で行う宿題も出る。一つはアイロン体操。痛いほうの手でアイロンをぶら下げて左右にブラブラさせると、その度に肩の付け根がカクンカクンと音を立てる。もう一つは柱に添ってゆっくりと手を滑らせるように上げていく。毎日痛いのを我慢して少しずつ訓練しているうちにだんだんと手が上がっていくようになり、3ヶ月もするとすっかり元の状態に戻っていた。
 転んだ原因はちょっとした不注意によるもの。夜に届いた宅急便の箱を片付けないままリビングの足元に放置し、その箱につまづいて、その時は運良く和室の方に倒れたので畳で衝撃も少なかったようだ。もしリビングの方に倒れていたらテーブルの角やフローリングの床で頭や顔をもっと強く打っていたに違いない。不幸中の幸いであった。子どもや年寄りのケガは外よりむしろ家の中が多いと聞く。もう2度とあのような痛い目には遭いたくないし、年を重ねれば治りはますます遅くなるだろうし、そのまま寝たきりなんてことにもなりかねない。今度こそしっかり反省して注意を怠らないようにしよう。



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