1999年(平成11年)1月20日

No.63

銀座一丁目新聞

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“針の穴から世界をのぞく(9)”

 ユージン・リッジウッド

砂漠のキツネの置き土産

 

[ニューヨーク発]米英による“砂漠のキツネ”パンチを見舞われたイラクが、経済制裁緩和に加えて大量破壊兵器を開発するフリーハンドすら得るかも知れないという思いがけない戦果を獲得する気配である。イラクの大量破壊兵器運搬用ミサイルの開発を少なくとも2年間は後退させたと米英が戦果を誇ってから1カ月もたたないと言うのに、敗者が勝者になりかねない形勢だ。それというのも、国連がアメリカのスパイ活動に協力していたという国連の内部告発による批判が噴き出して、一気にイラク・シンパの声が優勢になったからである。

 UNSCOM(アンスコム)の名で知られるイラクの大量破壊兵器の査察と破棄を任務とする国連特別委員会は、湾岸戦争の戦後処理の一環として91年に設置された。周辺国に脅威を及ぼす兵器の開発を防止する権限を与えられ、92年からイラク国内での査察を始めた。しかし95年サダム・フセイン大統領の義弟がヨルダンに亡命、イラクがUNSCOMの目をかすめて巧妙に大量破壊兵器を開発している実態を明らかにしたことで、UNSCOMの査察が十分でないことが証明された。態勢立て直しを図ったUNSCOMは、フセイン大統領の側近ならびに大統領親衛隊周辺の通信傍受に乗り出した。しかしこれには器材の提供はもとより、傍受した通信の解読までアメリカ情報機関が全面的に協力することになった。

 アメリカのマスコミがCIA情報やこの作戦に従事した関係者の話しとして伝えるところによると、通信傍受装置を当初は査察に出かける係官が背中に背負った小型リュックに入れて持ち歩いていた。しかしイラク当局に見つかる危険の大きいことから、アメリカは98年に手提げ金庫並みの大きさで、一定場所に置くだけでイラク上空を飛び交う通信を傍受する装置を開発、これがUNSCOMによりイラク国内に設置された。傍受された通信は装置から自動的に衛星経由で米メリーランド州にある通信所に送られ、そこで解読解析された上でUNSCOMに提供された。これによりイラクの巧妙な隠匿作戦を見破ることが可能になった。

 もともと独自の専門家チームや技術を持っているわけではない国連が特定国の技術援助を受けるのは特にめずらしいことではない。国連平和維持軍のように、人員、装備、技術のすべてにおいて加盟国が既に保有するものが提供され、その寄り合い機構に国連の名がつけられると国連の機関となる。UNSCOMも、約40カ国から提供された軍事技術の専門家で組織された。アメリカ人要員は米軍もしくは情報機関経験者であり、ソ連もKGBその他関連機関出身の専門家であることは公然の事実だった。上空からの偵察という点では、当初から米軍のU2型機並びにKH12というスパイ衛星がUNSCOMの活動に協力しているのも広く知られたことだった。その意味ではUNSCOMとアメリカは公然とスパイ共同作戦に取り組んでいたと言える。

 問題は、国連の名において行われる活動は国連の目的のためのみに行われるという、時には現実無視の大義名分が突然顔をきかせ始めることである。アメリカの情報技術が使われる限り、アメリカの情報当局がまず収集された情報の恩恵にあずかることは自明のことである。ところが通信傍受の地上装備について、UNSCOMとアメリカのスパイ共同作戦が突然槍玉に挙げられた。なぜか。

 一つには、U2型機やスパイ衛星による情報活動は国連の意志に関係なくアメリカの一方的行動により可能であり、国連はその恩恵を受けさえすればよかった。しかし地上傍受装置はアメリカ人のUNSCOM要員すなわち国連職員がイラク国内に設置した。つまりアメリカはUNSCOMを利用してスパイ活動を行い、一方UNSCOMという国連機関がアメリカのスパイ活動に直接手を貸したという点が問題となった。

 歴史的なつながりからイラクに理解を示しているロシア、経済的利益を狙うフランス、そして大国の力による制裁には批判的な中国にとって、UNSCOMとアメリカの結託は格好の攻撃材料である。安保理常任理事国であるこれら3国は、UNSCOMのリチャード・バトラー委員長の親米英・イラク対決型の姿勢がかねてから気に入らない。そこへイラク柔軟路線のコフィ・アナン事務総長がバトラー委員長のアメリカ情報機関への協力を国連にあるまじき行為として批判したという話しが事務総長側近からたれ込まれた。こうしてUNSCOM批判、バトラー批判に一気に火がついたというわけである。

 イラクはこの一連の事態を予測していたか、あるいは仏ロ中と連携が取れていたのか、早々とUNSCOMの活動再開を拒否した。これを受ける形でフランスが査察強行型のUNSCOMに代わる組織として、イラクの協力を前提に査察する柔軟組織を提案するに及んで、国連の査察活動は現状では崩壊したも同然となった。同時に人道目的に限るとは言え、イラクの石油輸出に対する制裁をほぼ無制限に緩和するというイラク支援策がフランスから打ち出された。米英がどこまで妥協するかは今後を見なければならないが、情勢は大きくイラク擁護に傾いている。

 砂漠のキツネがもたらした3日間のミサイルの雨を耐えたイラクは、計らずもこの砂漠のキツネに大きな置き土産をしてもらった格好である。負けて勝つというのは日本の教えだが、不死身のサダムは日本人の知恵でまんまと米英を出し抜いたということか。だとすれば、砂漠のキツネとはサダムのことだったのだ。

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