2001年(平成13年)11月1日号

No.160

銀座一丁目新聞

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横浜便り(24)

分須 朗子

−短い物語 「円」 1−

 もう10年つき合っている彼と彼女は、互いに、手の内を知り尽くしている。いつものように、彼が彼女をさいなむとしても、そこに真意はないことを彼女は知っている。彼女が彼をとがめても、心底で許されていることを彼は知っている。だから、彼と彼女のつき合いは、どこかしらとても静寂だ。

 この日、彼と彼女は、会う。
 昼下がりの秋空は真っ青に輝いていて、前回に会った初夏の香りと似ている。彼と彼女が会うことをしないままに、季節が一つ過ぎていた。
 5日前、彼女が、彼に「会いましょう」と言った時、彼女が電話口で触れた彼の素振りは、いつものように、まるで愛想が無かった。だが彼女は、いつものように「では、やめにしましょう」と、白白と言い放つことは止めておいた。
 仮にこのまま離れていったとしても、それもいつものことだけれど、彼女には、この別れが最後のような気がしたから、彼と会うことにした。
 彼は、「この日は仕事の合間の15分しかあいていない」と言った。彼女は、「会いたいのはこの日だ」と言い切った。
 だから、彼女は、15分を大切に過ごすための最良の方法を思い巡らせた。そして彼女は、彼に、「観覧車に乗りましょう」と提案した。彼の仕事場の近くで回っている、観覧車の風景を思い出したのだ。

 今、彼女は、柔らかい海風のすぐそばで、彼を待っている。
 彼と会う約束をしてからずっと、彼女は、この日彼に伝えるべきことを探っているのだが、言葉は何も浮かんでこない。おそらく、15分のタイムリミットはとりとめもなく過ぎるだろうと、彼女は予測している。
 だから、彼女は、彼のためにシュークリームを一つ作ってみた。大きなシュークリームだった。観覧車の中でシュークリームをほおばる彼を見ていたらきっと楽しいだろうと、彼女は考えたのだ。

 その時、彼は、会社のビルディングを出ると、港に沿って舗装された街路を歩いていた。ふと見上げたら、空の上に、赤黄緑の観覧車たちが大きな円形を作って、気持ち良さそうに揺れている。
 大観覧車の中央に表示された時計には、約束の時間まで5分ある。彼は、露店に立ち寄り、彼女のためにソフトクリームを一つ買った。

 彼と彼女が乗った観覧車の窓から広がる景色は鮮やかに澄んでいて、地平線がつかめそうなくらいだ。
 彼は身を乗り出して、二人の育った町を探している。どうしたのだろう、珍しく饒舌になって、町の思い出を喋っている。晴れの日、雨の日、それから、彼女が忘れていた曇りの日のことまでも。
 彼は、この日、彼女が別れ話を持ち出すことに気づいていた。だから、こんな時だけ、彼は、二人が共有した時間の重みを彼女に誇示してみせる。
 なぜだか、ソフトクリームが冷んやりと歯に染みたようで、彼女の目に涙がにじんだ。過去に幾度となく繰り返した喧嘩も、たわいない気まずさも、こんな時だけ、懐かしい匂いとなって彼女を温かく包み込むものだから、彼女の別れの予感はそっと溶けて消えてしまった。
 15分は、彼女がシュークリームを彼に差し出す間もなく、すぐさま経過した。
 ふいに、彼女は観覧車を指して言った。
 「1周しては立ち止まり、また1周しては同じ場所に戻って来て・・・私たちも、同じ円周をぐるぐる回っているだけなのでしょうか?」
 彼は、お喋りの勢いづいてか、すかさず答えた。
 「一生、回り続けていましょうか!」
 彼のおどけた言葉に、彼女は、愉快で大笑いしたいような、安堵で泣きたいような、複雑な顔をした。
 
 帰り道に彼女は、心の中で、彼の言葉を何回も何回もつぶやいてみた。彼の気持ちを一つ、新しい贈り物のように、彼女は抱きしめて、観覧車を振り返った。二人が描く円は、そのうち、とてつもなく大きく成長して、空に届くかもしれないと思ったら、彼女はとても楽しくなった。
 彼は、来た道を戻りながら、ソフトクリームをえらくおいしそうに食べていた彼女の顔を思い出した。それから、彼女が腕に固く抱えていた袋の中身をあれこれ想像してみたら、楽しい気分だった。



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